2010年11月30日火曜日

11月読書

11月は12冊読んだ。もっと読める。スピーチ作るやなんだかんだで読めなかった。
新書だけだったら20冊は読めると思う。でも読みたい本を読まなきゃ勿体ない。
最低でもひと月10冊読む生活を続けていこう。

ゆきお本棚
2010年11月
アイテム数:12
経済成長という病 (講談社現代新書)
平川 克美
読了日:11月04日

9条どうでしょう
内田 樹,平川 克美,小田嶋 隆,町山 智浩
読了日:11月05日

宗教の最終のすがた―オウム事件の解決
吉本 隆明,芹沢 俊介
読了日:11月06日

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,Michael J. Sandel
読了日:11月09日

鍵のかかった部屋 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
ポール・オースター
読了日:11月10日

幸福論
吉本 隆明
読了日:11月15日

超戦争論 上
吉本 隆明,田近 伸和
読了日:11月15日

真贋
吉本 隆明
読了日:11月18日

子どもは判ってくれない (文春文庫)
内田 樹
読了日:11月22日

柴田さんと高橋さんの小説の読み方、書き方、訳し方
柴田 元幸,高橋 源一郎
読了日:11月23日

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2010年11月28日日曜日

披露宴スピーチ

本日、結婚披露宴の友人代表スピーチをした。形式的な結婚披露宴に参加したのは初めてだったから大変だった。予備校時代の友人である。僕らは高校に行かずに河合塾の大検コースに通っていたから、僕らにとっての高校生活と言える。
何となくスピーチを引き受けてしまって、ここ1週間はほとんどの時間を家で原稿を考えるのに費やした。
8年前とか9年前の予備校時代のことはほとんど忘れてしまっていた。友人を忘れることはない。しかし予備校の友人との思い出を振り返る機会がなかったから、彼らとどこへ行ってどういう話をしていて、ということが出てこないのだ。あまり変化のない同じような毎日が繰り返されていて、その毎日のほとんどの時間をともに過ごしていた。空気の存在を意識して呼吸をしていないように、僕は日々過ごすことに精一杯で友人の存在について思いを巡らせたことがなかったのだ。
今回、何となく引き受けることでそういう機会が得られてよかった。

原稿ができたのは出かける直前だった。完成した、と思っても少しすると修正というのを繰り返したから今朝までかかった。そうして本番を迎えた。どれだけ緊張して頭が空白になっても原稿を読みさえすればいい、という目的で作った原稿はそのまま読まずにだいたいアドリブで変えて言った。我ながら感動的なスピーチであった。

披露宴は、新郎新婦にとってとても大変なものだ。緊張して挨拶したりみんなに写真を撮られたり。親たちにとっても大変だろう。僕は自分はそういうのは絶対やりたくないなと思っていた。でも、今回参加して少し気持ちが揺らぐ。
そういう大変な披露宴だの結婚式だのを何故やるのかと考えた。理由の一つには「気合いを入れるため」というのがあるとおもう。大変ではあるけど、これからの人生に気合いを入れて頑張ろう!と自分たちにも周りの人にも示す機会なんだろうと感じた。
そういう意味で、友人代表のスピーチという形で少しでも大変さを分かち得てよかったと思った。

めでたい。

2010年11月26日金曜日

帰省中


日曜の友人の結婚式への出席のため、帰省した。飛行機での帰省は手軽である。
飛行機から富士山が見えた。富士山は見たら富士山とすぐに分かる。
夕焼けの空の赤さと雲海がきれいだった。

2010年11月25日木曜日

スピーチ完成

友人の結婚披露宴のスピーチが完成した。
スピーチの大枠は一週間前に出来ていたけど、
文章をきれいにつなげたりするのに手こずった。
予備校時代の友人でそのころのことはほとんど覚えていないし、
記憶を呼び起こす写真などもほとんど残っていない。
スピーチの本を読んだら例文が載っていたのだけど、
友人挨拶の例文はどれにも具体的なエピソードが文章に混ぜられていた。
たぶんその本の作者は友人なら具体的エピソードを思い出せるものだと思っているのだろう。

何となく覚えていることをつないだり、抽象的なことに逃げたりと、
一般的なスピーチとは言えなさそうだ。

この一週間、ほかのことはほとんど手につかなかったので、
肩の荷がおりてほっとしている。

これで安心して日曜を迎えられる。

2010年11月17日水曜日

webカメラの使い方

その一週間で観たもの読んだものなどおもしろいと思ったものを3分ほどで紹介する、のを撮影するという活動をしようという話になった。これは普通のビデオで撮影してもいいのだろうけど、せっかくなのでwebカメラで撮影する。少し手間が減るのと自分の姿を確認しながら進められるのが利点。なかなかおもしろそうな予感がする。読んだ本でも観た映画でも絵画でも活動でも何でもいいけど、発表する。自分で話したいことを話すのとその場にいる人が質問するのを混ぜれば思わぬ方向に話が進むかもしれない。今年中にDVD一枚にまとめたり、youtubeに流すのもいいかもしれない。
まだまだこのパソコンのwebカメラの有効活用法は受付中です。

2010年11月15日月曜日

もうすぐ誕生日である。26才になる。
東京に出てきたのが20才の時だった。年を重ねるにつれ時間の感覚が鈍化して同じ期間でもあっという間に感じるという話を色んな人とから聞いたけど、僕はそれを解せないでいる。

そういえば6年前の今頃は受験直前期で肺炎にかかっていた。あれは死ぬかと思った。家に誰もいなくて頭がガンガンして寒気がして、熱を何度も計ったのだけど計る度に熱が1℃ずつ上がっていくのだ。孤独死か、と思い何だか情けないのと辛いので涙を流していた。4年も予備校に通ってて、ようやく受かりそうになったのに直前で死ぬというのは悲しすぎる話だ。

そして3年前のクリスマスイブ。僕の23才の誕生日。友人と夕食を共にしたら急に気持ち悪くなってきた。吐き気が止まらなくて腹も痛くて大変だった。所沢の家に帰ったら、同居人がお祝いの準備をしていたのだけど、もはや目に入らず自分の部屋に直行してベッドに倒れ込んだ。その時も寒気がひどくて電気敷毛布の設定温度を最高にしてエアコンをつけて毛布をかぶっていたんだけどブルブルしていた。寒くて眠れないから、熱を計ると40℃だった。これは駄目だと思い救急車を呼んだ。今から思えば救急車は大げさだったかもしれないが、その時も死ぬと思っていたから仕方ない。救急車に乗って病院へ行ったらインフルエンザの検査をした。それは陰性で、結果はウイルス性腸炎という診断にだった。

さかのぼって今から12年前は手足の手術をした。9年前は何があったか覚えてないが、3年前・6年前・12年前とひどい病気なり何なりを経験してきたから、今年は何か病気になるのではないだろうかと思っている。

結婚式スピーチを考える

11月後半にある友人の結婚式でスピーチを頼まれているから考えなくちゃいけないのだけど、
結婚式に行ったことのない僕はどんな話が定型なのか分からない。
分からなくてもそろそろ考えださないと直前に酷い状況になる。
早めに出来上がったものを持っておくと、それが気に入らなくてもこちらの精神状態は安全である。
他人の結婚式で追い込まれるのはいやで、緊張するのは当人だけにしてほしいものだ。
それでも気軽に引き受けてしまった自分のせいであるから仕方ない。

その友人とは7年前に知り合った。お互い高校を中退して予備校の大検コースに在籍していた。
遊んだり授業をサボったり嫌いな講師の悪口を言い合ったりとか酷いことばかりしていた。
そういう結婚式では話せないようなエピソードだらけの中にも、少しは結婚式向きのエピソードがあるんじゃないかと思うんだけど、ずっと考えていても見つからない。
「ああいう酷い時期があったけど今はだいぶん落ち着いています、あの当時に会わなくてよかったと思いますね」みたいな。


これじゃいかんな。
明日からまじめに考えよう。

2010年11月14日日曜日

親ガメ子ガメ問題

さきほど友人から電話がかかってきて、思いついたから書く。

受験時代、depend on~(~に依存する)という熟語はなぜ前置詞にonがくるのかという話を予備校の先生がしていたのを思い出す。
親ガメと子ガメがいて親ガメの甲羅の上に子ガメが乗っているという図を描いてくれた。依存するってのはこういうことだよ、と。この図をみて「子ガメはいいなあ」と僕はそのとき何となく思っていた。

人間同士はその関係性において依存と被依存に分けられるが、同じ人同士でも問題によってその関係性は逆転する。依存-被依存関係の被依存側に各々がなろうとすれば、人間関係は円滑に進む。というよりも、どちらも依存側にたとうとしたら衝突が起こり亀裂が走る。あくまでこれは物事に取り組むときの構え方の問題であり、どちら側か判断し難いことは多々ある。それでも構え方としてそうしておく方がよい。
僕の思いとしては常に依存側に立とうとしている人間と一緒に行動すると疲れるからできるだけ遠ざかりたい。言い方を換えれば「責任感」の問題である。ある物事に対してどれだけ自分なりの「責任」を感じているか。ある物事に参加する際、どれだけの「責任」を有するかを予め考慮しておく「責任」がある。軽はずみに色々な物事に手を出すのは構わないだろうが、それに伴なう「責任」は放置してはいけない。だから多くの人は多くのことに手を出せないし出さない。物事に参加していて自分はただの参加者だから「責任」がないと思っている人間は文字通り「無責任」である。

個体としての人間は本質的に怠惰であり、社会としての人間は勤勉である。カラにこもったり周りを見ないようにすると怠惰な方向へ人間は流れていく。僕が「子ガメがいいなあ」と思ったのは自分で動かなくていいという怠惰な感情からであると思う。子ガメは親ガメが動けば自分も移動できる。そして大体において、成長していない子ガメの願望は親ガメと一致している。食べること。安全な場所で眠ること。

子ガメは本能的に依存から脱却するが、人間はいつまでも依存することができる。いや、いつまでもはできない。依存-被依存関係では被依存側の主張がいつも有利であるから、被依存側がNOを突きつけたとき依存側はその場にいられなくなるのである。依存側が依存し続けたいと主張することはできるが、被依存側が依存させ続けたいという思いがない限りこれは永遠に認められない。
だから僕はできるだけ被依存側に立ちたい。自分から何かを始めようとする人間は好きで、責任を持って色々なことに参加する人間も好きである。人に何か始めてもらおうとする人間や無責任な態度は好ましくない。

2010年11月12日金曜日

NHK(National Housou Kyoku)

昨日、知り合いがustreamで動画配信をしていた。
おそらく彼を知らないとあまりおもしろくないのだろうけど、
彼を知っている僕からしてみればとても面白かった。
そして衝撃だった。

尖閣諸島問題のビデオ流出問題で立花先生がNHKのニュースで「個人が放送局になり得る時代」と話していた。まさにそういう時代だと思う。テレビとインターネットの差はあるけど、知り合いが画面に映るというのは今までは稀な体験だったけどこれからは違う。これは本当におもしろい。テレビでは流せない、非有名人の超個人的話題をustreamでは流せるし、見たい人が見にこられる。
このおもしろさを大多数が知ったら、大きく変わると思う。
もはや大多数が知ってるのかもしれないけど。

先日購入したパソコンにwebカメラが装備されている。
今日のゼミ後に大活躍だった。気軽に撮影して気軽に保存して、気軽に編集する。
ネットに繋がる環境だったら気軽に生放送ができる。

読書会とかも配信できる。テーマを決めた議論も配信できる。
そういうわけで、このwebカメラの有効利用方法を募集しています。
コメントでも直接メールでもどちらでも受け付けています。

こねこのメンバー曰く、11月末帰省時の読書会を配信してほしい、とのこと。
それは出来る環境かどうか分からないけど、おもしろそう。少し考えよう。

2010年11月11日木曜日

パソコン到着

パソコンが届いた。
とてもうれしくてうれしくてそしてつかいにくい。なれるのには時間がかかりそうだ。
古いパソコンのほうは、まるでポールスミスの財布のように画面に七色の線が入っていた。人間の脳の処理能力はすごいもので、七色の線のことはすっかり忘れていた。見えてるんだけど。

何が使いにくいかというキーボード。配置とボタンの大きさが今までのと少し違う。

まあそうは言っても、そういう細かいことをすべてふっとばすような性能だからいいのだ。僕がグラフィックボード業界の王様と言っているNVIDIAというメーカーのチップが搭載されている。だからlinuxベースのubuntuという無駄に過剰な画像処理能力を要求するOSを入れてみた。楽しみだったけどバグってしまったから今度再挑戦してみる。ubuntuの何がすごいって動画をみたらわかるけど、プログラムを閉じるときにプログラムが燃えるような演出をするとかマウスを動かしたら画面上に波紋がでるとか。その波紋が画面の端に到達すると跳ね返って、角なんかだと跳ね返ったものどおし波がどうのこうのあれこれなっている。当然だけど、そういうのってすべて計算して画面表示されてるわけで適当そうに見えても結構大変なもので。DVDが高画質とかblue-rayはこう繊細だとか3Dは飛び出ないとか言ってる場合ではないのだ。

昔、夢見ていた遠い未来の姿を思い出す。たとえば、機械がカタコトな言葉で「オハヨウゴザイマス。オショクジハナニニシマスカ」とか聞いてきて、僕はそれに「目玉焼き」と答える。「ショクゴハコーヒーニシマスカ」とか色々面倒なことを機械がやってくれるというような未来。
でも考えてみたら、全自動で働くような技術がありながら機械がカタコトで語りかけてくるのはおかしい。そもそも心を読めと、今では思う。

話がそれた。つまり、理想の未来っていうのは必ずしも合理主義の極限ではないのだろう。だからパソコンの画面で波が漂ったり、雷が鳴っていたりするのも、いいもんだ。無駄ってことはない。

2010年11月6日土曜日

注意

このブログを読んでいる人からの感想によると、これのアイデンティティはひたすら何かに怒ることだそうである。では怒ろう。と言ってもいつも怒っているわけではない。いつも怒っていたらアドレナリン出っぱなしで体に悪い。それは避けたい。


先日、大学の図書館に行って勉強していたら、ぺちゃくちゃ喋っている学生たちがいた。そういえば、先週の同じ時間も同じ学生たちが同じようにうるさかった。僕はカフェで読書しているときも人の会話が気になる人間なので、静寂な空間で喋られているとかなわない。

注意するというのもなかなか面倒なもので、どういう風に注意するのがいいのだろうと考えるところから始まった。ウソみたいかもしれないけど以下のようなことを何分か考えた後注意に行ったのである。

例えば、僕が「うるせえよっ」っと怒鳴ったら、
「あなたの方がうるさいですよ、図書館なんだから静かに注意したらどうですか?」と周りの人に言われるかもしれないし、悪くしたら僕が注意した人にそう言われかねない。
だからこの怒り方は却下することにした。

次に「うるさいから静かにしてくれない?」と半笑いで丁寧に提案してみると言う案。
「(うわ、なれなれしいな)」と思われ、「いやです」と断られるかもしれない。そうするとわざわざ半笑いをしていた僕の顔は無駄になる。そして僕の怒りは倍増し、最初の「うるせえよっ」案に戻ることになる。
ゆえにこれも却下せざるを得ない。

この二つの例は、以下の数直線に示すように怒りの感情の軸の両極端に位置するわけで、
中をとればいいわけである。ではどの△の場所ををとればいいのか。


     ▽丁寧な案         ▽怒鳴る案
(冷静)<------------------------------------------>(怒り)
         ▲  △新しい案  △


その時の僕は▲のあたりを採用した。

彼らの席に近づいていって無表情に不機嫌そうに「うるさいからしゃべるな」と言って、ぱっと翻って自分の席に戻ったのである。我ながら華麗であった。そして彼らはしゃべるのをやめた。こういうときは謝罪されると思っていたけどそうでもないみたいだ。

後々面倒な事態に巻き込まれるかもしれないから、こういう注意は個人がするのではなく、図書館の人がすればいいんだけど、気づいていないのか面倒だったのか放っておかれた。そういうときは仕方ない。僕がやるべきなのだ。見た目がちょっと恐いだろうしこっちが年長だろうから。

しかるべきときに注意を受けなかったら、彼らにとっても不幸なことである。喋ったらいけないところで喋っていたら、例えば僕よりも強面で腕に入れ墨が入っていたり手にメリケンが装着していたり懐にはじきが入っていたりする人がいる場所だったりしたら、とんでもない注意を受けていたかもしれない。口だけではなく痛みを伴うやり方かもしれない。
そう考えると注意するというのはなかなか親切な行為である。ただし自己陶酔が混じっていたことも認めざるをえない。
注意一つするのもなかなか考えさせる。

まだまだ書き足りないので次回へつづく。

2010年11月5日金曜日

流出ビデオについて

尖閣諸島の流出ビデオを見た。

でももはやこの問題の本質は事件の真相というよりも、
なかなか横暴なことをする中国とそれに依存している日本という問題の方ではないかと思う。
真実が目に見えたからどうという問題ではない。受け取る人間や団体の構えの問題。


これまでこういうデータの流出ってマスコミ経由youtube行きだったのが、
マスコミ経由なしでyoutubeに直接投稿されたという点が重要。
マスコミバッシングではなく、パッシング。
これはおそらくマスコミが一番恐れていることで、我々が望んでいることかもしれない。

一人の動画投稿がどのマスコミよりも影響力の強い情報を伝えることができる可能性がある。
新しい時代の到来だ。

野党たちは政権の情報管理のずさんさを指摘したけど、これからこういう事件はどんどん起こるはず。
人間一人とネットに繋がったパソコンさえあればできるわけで、
自民党はこれまでそういう時代を経験していないのだから、
自分たちの時代はそういうことがなかったと言って批判したとしても、
まったくの無意味な発言でしかない。

でもそういう国家機密流出ならGoogleのYouTubeじゃなくて国産のニコニコ動画にしてほしかった。

名字

昨日、かねてから気になっていた名字が同じ人と話すことが出来た。僕の名字はなかなか珍しい部類であるから、近い親戚以外で会ったのは二回目である。もしかしたら遠い親戚かも知れないけど。

そうそう、中学一年のころの同じクラスにもいた。多分遠い親戚だったんだろう。僕の親戚は福岡と佐賀の県境付近に多く住んでいるから、あの付近にいて名字が同じで親戚ではない方がおかしい。同じクラスであったけど彼とは分かり合うことはなかった。

そういえば、中学の時にとてもとても嫌いだった書道の女の先生がいた。その先生は我が町の町長の夫人だったから、どれだけ横暴でも誰も文句が言えないという安っぽいドラマのような設定だった。若かりしころの僕は学級委員なんかをしていたので、クラスの代表として担任に文句を言いに行ったような記憶がある。担任の先生はどうにもならないんだよ町長夫人だからねえと苦笑いしていた。
あまりにも嫌いだったという印象が強すぎて、もはやどういうことが嫌だったのかを忘れてしまった。でも当時のクラスメイトとその先生の話をすると、嫌いだったという思い出しかない。

あるとき、僕の祖父が衝撃の事実を伝えてきた。詳しい繋がりは忘れたが、とにかくそのみんなに嫌われていた町長夫人である女先生は親戚である、という。血縁関係としてはそんなに近くないのだけど。
たしかそれを聞いたときは中学を卒業していたから、ダメージは少なかった。先に知っていたらひどい気分だったろう。

2010年11月4日木曜日

ゆきお本棚
2010年10月
アイテム数:8
移行期的混乱―経済成長神話の終わり
平川 克美
読了日:10月01日

太陽の塔 (新潮文庫)
森見 登美彦
読了日:10月02日

だいたいで、いいじゃない。 (文春文庫)
吉本 隆明,大塚 英志
読了日:10月07日

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
森見 登美彦
読了日:10月12日

ほんとうの環境問題
池田 清彦,養老 孟司
読了日:10月18日

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2010年11月3日水曜日

twitterで書き込んだ文の中で僕が一番使った漢字は「本」なのだそうだ。そんなに書いてたっけなあ。
調べてみると日「本」とか「本」日とか吉「本」隆明とか使っていたから純粋に書籍の意味での「本」は少なかった。なっとく。

最近、友人に本を読んでいるねと言われることが多いけど話題に上るほと読んではいない。本をできるだけ買わないようにしたら、家に積み上がっているものが少しずつ減ってきた。明日は読書会の日で平川克美氏「経済成長という病」を取り上げる。先週一度やっていて、あまりよくなかったのでやり直しである。先週も一通り読んで今読んでいるのは二度目だから俯瞰して部分を読むことができる。
11月の終わりの帰省時に地元でも読書会を行う。そっちの本はマイケル・サンデル「これからの正義の話をしよう」である。こちらは半分ほど読んだけど、まだまだ読み終わらない。おもしろいのだけど何かいまいち波に乗れない。波に乗れるのがどうであれ、本を読むのは楽しい。この本は読書会向きの本だろうなと思う。