2011年4月29日金曜日

ダライ・ラマの手




護国寺まで東日本大震災犠牲者特別慰霊法要に行った。ダライ・ラマ14世が来ていたので簡易金属探知機ゲートをくぐり手荷物検査をされた。かなりの数の人が法要に参加していた。あまりに多くて本殿までは辿りつけず、本殿前に用意された椅子にさえ近づけなかった。さらに途中で雨が降ってきて参加者が傘を差し始めて、法要の行われている本殿が全く見えなくなったので、法要が終わる少し前に出口まで戻った。
出口でぼーっと休憩していたら、横綱の白鵬関に遭った。どうやら法要に参加していたようで、付き人を引き連れ威圧感たっぷりに僕の3mくらい前を歩いて通った。
その後、ダライ・ラマが黒い車に乗って出てきた。写真を撮ろうと思いシャッターを押したけど、車が速くて窓から出ている手しか写らなかった。

2011年4月28日木曜日

昭和の日

今日、4月29日、みどりの日あらため昭和の日。

4月28日で震災から49日。
3月11日の映像がショッキングだったのとそんな映像を繰り返し見てしまったから、普段の生活を送っていてもあの日を引きずっている気がする。あれから49日経ったと言われても、昨日のことのような一昨日のことのような不思議な時間の感覚の中に囚われている。

そういう中、護国寺で東日本大震災の特別慰霊法要が行われる。そこにチベット仏教のダライ・ラマ14世が来る。もともとアメリカに向かう途中で日本に寄る予定だったので滞在期間を延長するようにしたという話らしい。家から場所が近いから参加したいが、こういう場合はどういう服装で行くべきなのだろうか。やはり礼服なのか。普通の服装で行って、相応しくなければ様子をうかがって帰ってくることにするか。

ちなみにダライ・ラマと言えば、つい先日チベット自治政府の政治ポストを引退したらしい。
 インド北部ダラムサラにあるチベット亡命政府は27日、新首相に米ハーバード大学の研究員、ロブサン・センゲ氏が当選したと発表した。チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世の政治活動を支えるほか、ダライ・ラマ14世の政治的権限を引き継いでいく見通しだ。(International Buisiness Timesより抜粋)

2011年4月27日水曜日

違うタイプ

今日は1日が順調に進んで、今日はいい日だったなあと思いながら寝られそうだったのだが、さっき電話をして気分が悪くなってしまい、しまいには吐き気を催してしまった。簡単に言えば、誤解が原因で思いっきり感情をぶつけられた。その後、誤解であることを互いに理解したのだが、非常に疲れた。

僕はあまり感情を表に出さないようにしている。負の感情の場合は特に気をつけている。腹が立っても、悲しんでも、相手に感情をぶつけたところで良い結果はでないと思うからだ。それよりも理路整然と腹の立っていることや悲しみを伝える方がずっと建設的だと信じている。

そういう接し方をしていると僕の心は広いとか優しいとか勘違いされることがしばしばある。とんだ間違いであるが、僕はかなり広めの心を持っていると思われる。そんなことはない。むしろ人よりも心が狭いとさえ思っている。あれこれこだわりが色々あって、ある範囲を侵されたらとたんに不機嫌になる。不機嫌にはなるがただの不機嫌さは不毛だと考えて抑えているだけなのだ。不機嫌になると面白い話にして友人に話したり、twitterやブログに吐き出してランニングして奇声を発するかという極めて周囲に迷惑のかからなさそうな解決策に飛びつくようにしている。
それで収まらなくても、表に出さず腹の中にしまう。おそらく胃潰瘍になるタイプだ。よく胃液が出る。僕はそういう人間だ。

そうでないタイプの人間がいることを僕はよく忘れてしまう。思考過程とか価値観とか決定的に違う人がいるという明白な事実の認識はとても大事だ。まあそれを胸に抱いて日々生活しても、思いも寄らない部分に違いが潜んでいるから、誤解や摩擦や衝突が生ずるのを避けることはできない。
僕のタイプが水や氷で冷そうとすると、他のタイプの対極として火がちょっとついたら感情の塊を直球で僕に投げ込んでくる人がいる。激情型。熱い話をしていく。そういうタイプのやり方で非難をされたりすると僕も我を忘れてしまうことがある。貯めていた感情が吹き出してしまい、あとであれは言い過ぎたとか不毛だったなとか思う。その激情タイプの人はそれが正しいと信じてやまないようで、対極である僕のタイプとはおそらく永遠に理解し得ない。

かく言う僕も自分のタイプが正しいと思い、その理屈もつらつらと100種類は挙げられるがここでは挙げないことにする。おそらくどちらの極も正しいわけではなく、自分と相手の中間あたりの場所に正しさがあると考えるべきだ。というようなことを僕が書いても思ってもこれから起こるであろう様々なトラブルに上手に対処できるとは思えない。上手に対処するにはこれらのタイプがいて自分と相手の中間あたりに正解がありそうということを踏まえた上で、自分と相手の立ち位置や距離を見極めていかなければならない。これは次への課題である。

ただ表に出ないから感情をぶつけても大丈夫だというわけではない。人並みに心が痛むし、疲れるということを心に留めておいてもらえると僕にとって生きやすい世の中に近づく。

2011年4月19日火曜日

AidTAKATA陸前高田フォーラム レポ

2011年4月16日10:00@豊島区民センター
「第1回 Aid TAKATA 陸前高田フォーラム」
陸前高田市支援連絡協議会
参加者100名超 在京陸前高田出身者が多数
・今回は挨拶と現状報告のため開催
・これから先、長年の活動をしていく
進行順(以下敬称略)

村上 清
AidTAKATA代表
国連難民高等弁務官事務所 元 人事研修部長
陸前高田ふるさと大使
②震災前後のスライド
戸羽 太 市長
現地とスカイプ中継で挨拶
遠山 清彦
公明党 衆議院議員
元 外務大臣政務官
村上清と10年来の友人
公明党の復旧復興支援の座長
Peace Winds Japanの相談役(?)
猪口 邦子
自民党 参議院議員
元少子化担当大臣
小森 雅一
内閣府参事官(災害復旧・復興担当)
震災翌日ヘリにて岩手入り
連絡対策室 事務の取りまとめ
佐々木 信秋
陸前高田市
SaveTAKATA代表
黄川田 純也
陸前高田市出身
弁護士
在京で困っている学生などの支援
衆議院議員 黄川田徹(とおる)は親戚(本家)
西條 剛央
早稲田大学大学院専任講師
仙台市出身
「ふんばろう東日本支援プロジェクト」
南三陸町にて活動
Twitterを活用して必要な物資を拡散し収集
社協 8名しか残らなかったのでボランティアの受け入れは断っている
Amazonとの組み合わせ
被災地と支援する企業や地方自治体をつなげる
村上 清 挨拶
戸羽 太 市長 緊急声明発表
次回フォーラムに向けて
・よりお香の方々による活動報告
・パネルディスカッション
・参加者全員が情報交換できるようなプログラム

2011年4月17日日曜日

AidTAKATA陸前高田フォーラム

第1回Aid TAKATA陸前高田支援フォーラムに参加してきた。在京の陸前高田出身者と関係者が市の今後の復興の形を考えていくもので、今回の初会合は代表と参加国会議員の震災後からの動きや発足の経緯、skypeにより現地と繋いで陸前高田市長の挨拶などが行われた。今後は具体的な話し合いが行われるようである。
僕は陸前高田出身ではなく、大学の時に2度行き知り合いが何人かいるという、関係者などとは言えないくらいの関係でしかない。しかし、好きな町で好きな人たちだったからずっと気にしていた。お金も時間も特にない僕には出来ることなど限られているから、復興のプロセスを見守り、人に伝えることでもしようと思う。

2011年4月15日金曜日

佐賀県基山町のキャラクター「きやまん」が誕生



http://www.tokyo-chara.com/licenser/20110407.php
以下引用
佐賀県基山町が募集していた町のキャラクターに「きやまん」が決定した。

基山町では町事業等のPR効果を高めるため、町の良さや親しみを感じる「愛称」と「イメージキャラクター」を募集していた。そこに町内外から135点もの多数の応募があり、北海道の八谷早希子さん(35)の作品が最優秀賞に選ばれた。

デザインは基山町の自然や基肄城を守る「防人」をイメージ。兜には基山・秋光川がデザインされ、町の花つつじがあしらわれている。また、身にまとう鎧の中央には、基山町や基肄城を連想させる「基」の字がシンボライズされている。

同町では佐賀県・唐津市の兜姿のキャラクター「唐ワンくん」に続けと期待が高まり、今後は、公用封筒やチラシ、パンフレット等印刷物への掲載が予定されているという。


いや、恥ずかしながら我が故郷です。キャラクターブームはせんとくんあたりで終わったと思っていたんだけど。
まあかわいいキャラクターだけど、せんとくん以上に気持ち悪いキャラクターで勝負するとかインパクトがないと、キャラクター業界じゃ生き残っていけないですよ。ちなみに基肄城は元寇のときに建てた城です。今や石と岩とたて看板しかない状態なのにキャラクターに連想させて恥ずかしくないのかと思ったけど、そんなものはないんでしょうね。
ちなみに隣町の鳥栖市はとっとちゃんか。しかもメジロかよ。たしかにメジロはたくさんいるけど、僕はメジロと縁が深いな。しかしこっちのキャラクターも負けずにひどい。使用取り扱い要綱には
本市及びイメージキャラクターの品位を著しく傷つける恐れのあるとき。は使うなって書いてある。
このイメージキャラクター使うと、市の品位が傷つくんじゃ・・・いや、それともあれを使っても下がらないほどの品位しかないのか。


書いて1日経って調べてみたら、基肄城が作られたのは白村江の戦いの後らしく、元寇の時にも使ったということでした。

2011年4月11日月曜日

東京タワー





本日、青山に行ってきた。歩道橋から東京タワーが見えたので写真を撮ろうと思いカメラを構えた。デジカメの液晶に映るタワーはやはり少し曲がっているように見えた。

2011年4月9日土曜日

友達作戦

TOMODACHI作戦の範囲はどこまでかというのは邪推だろうか。

アメリカはおそらくほとんどのことにきちんとした戦略を持って臨んでいると思う。そんなにお人好しの国ではないから、世界各国でドンパチやってるのだろう。
それで日本の一凡人が推測するにTOMODACHIはイノセントなものではないはずだ。TOMODACHIとして助けるというよりはのちのち「TOMODACHIなんだからさ、これくらいいいじゃん」とか言うまでが作戦の範囲なんじゃないだろうか。
簡単に考えられるところでは、これからの在日アメリカ軍の問題が絡んでくるはずだ。かつての沖縄総領事のメア氏の暴言があったことは記憶に新しい。あの発言で失った信頼の回復という最低限の効果はすでに得られたのではないか。東北の人たちは感謝している人が多いだろう。文字通り命を救ってもらうわけだし、これからの生活の希望にもなるわけだから。首都である東京の人間たちもやはりアメリカがいないとダメなんだと思い知ってしまった。もちろん沖縄の人たちは何もしてもらっていないし反発はあるだろうし、メア氏の発言とは別だと主張するだろう。しかしこのままいけばこれまでと同様に沖縄県民の意向は無視される。ひどい話だが、それは最低ラインでそれ以上のことを要求されるかもしれない。
いずれにしても少なくとも我々はこのTOMODACHIの頼みを簡単に断ることはできなくなってしまったのは確かだろう。

2011年4月8日金曜日

余震はつづく

何だか参っちゃうや。余震は続くし、原発は不安だし、先行き不透明。
3月11日から僕は一気にひとりごとが増えてしまった。意味不明のうめき声をうなったり叫んだりしている。それをしないとまともにやってけない。それくらいで済んでいるとも言えるけど、これを長い期間、個人で受け止め続けてたら、身体に支障が出てくる気がする。
そしてこんな時間にお腹へった。

2011年4月4日月曜日

カエルグミ




ハリボーって、ドイツ製の有名な硬いグミ。
基本的にハリボーはどれも全部硬いが、その中でもこれは硬い。

その硬さも好きだけど、僕はこのかわいさの微塵もないカエルの形が気に入っている。
だぶんリンゴ味だと思う。カエルの味ではないはず、カエルを食べたことないが。

2011年4月3日日曜日

新年度

新年度になってうちのマンションの駐輪場からごっそり自転車が消えた。一夜のうちに。それまで10台近くあった自転車が、今では3台になっている。しかもそのうち2台は僕の自転車である。謎だ。
知らないうちに引っ越したのだろうか。うちのマンションといえば外国人の入居者が多い。もしかしたら原発の問題に恐れて故郷の国へ帰ったのかもしれない。
日本人であってもよく分からない状況なんだから、日本語がよく分からない人たちにとったらなおのことだろうし、僕がその状況だったら余程のことが無い限り母国に帰るだろう。
ただの推測だが、今の状況では説得力をもつ説として有効である気がする。
この国はそういう得体のしれない恐怖をはらんだ国になってしまったのだ。

たったひと月で本当に変わった。
たったひと月前は食べるものはただ食べていた。
たったひと月前は飲むものはただ飲んでいた。
たったひと月前は不安なく口にしていたのだ。
そしてひと月後はどうなっているだろう。

2011年4月1日金曜日

先日、東京に戻りました。

東京から九州に行く時の気分はまるで疎開だった。
余震はある、店に食べ物がない、停電があるかもしれない、原発がどうなるか分からない、どうにかなったときどうしようもない等、悩むことが多くて、その全ての問題の情報をいち早く得るべく、twitterでフォロワーを30人から一気に60人に増やした。すると1分と経たないうちに新しい情報が入ってくる。ほとんどは大した情報ではない。しかし、まれに福島原発など重要情報が入ってくるから、パソコンの前を離れられず、ほぼ1分毎に更新される情報のほとんどを逃さず見ていた。勉強の傍らで情報収集というよりは情報収集の傍らで勉強をやっていた。勉強は集中できず、情報が得られない時間があると不安になるため、家の外に出ることもなく、そうこうしているうちに日が暮れていくという毎日が過ぎていった。そして、余震ごとに目が覚めるから熟睡も出来ず、身も心もどんどん疲れ、あらゆる心配事についての思考を停止したくなったから九州に戻ったのである。九州に戻る新幹線は人がたくさん乗っていて、ほとんどの人が大きな荷物を抱えていたから僕と同じような考えだったのだろう。
そういう経緯で戻っていったけど、九州の人たちは気楽であった。東京と福岡や佐賀は1000キロ離れている。それだけ離れていると、東京の混乱というかピリピリした空気は全く別世界の話である。だから佐賀の家族や友人たちに、僕が東京から戻った経緯は伝わらないもどかしさが残り、しばらくすると僕自身も居心地が悪くなってきたので東京に戻ろうと思ったのであった。
空気や水に放射性物質が含まれていたり、本当に安全な野菜なのかとか、ペットボトルの水がないとか、原発は一進一退だとか、今でも色々問題があるけど、精神的にはだいぶんマシになった。
帰ってきてからほとんど人と会わず、引き篭もって勉強している。引き篭るのも悪くはないけど、言いたいことがどんどん溜まってくる。すると人と会ったときに話したいことが噴出する。噴出後はアドレナリンの影響なのか頭痛が起こる。頭がいたい。