2012年12月16日日曜日

選挙前日は憂鬱

明日は衆議院選挙と東京都知事選の日だ。さて誰に、どこの党に投票しようか。

「たかが一票、されど一票」という言葉があるようだが、僕の気持ちとしては「たかが一票」が圧倒的に強い、と思っている。
しかし、なぜこうにも迷うのか。「たかが一票」ならばどこの誰に入れようが問題ないじゃないか。

多分僕は無意識では「されど一票」なのだろう。

そして迷っている。この東京10区という場所は具体的な候補者は自民党、民主党、日本未来の党、共産党から選出されている。
新聞やテレビなどのメディアは自民党圧勝・民主党惨敗、第三極がどこまで得票を伸ばすかという見通しというか見解で一致しているようだ。そしてそう言われているとそんな気がして、揺るがない気までしてくる。
この4年ほどの民主党政権では、なんだか素人たちが政権をしているように見えた。しかし前回選挙の時は、「一度、自民党という錆びついた政治家集団から政権を奪ってやろう」くらいの風が流れていた。たまたま対抗馬として民主党があっただけで、今から考えると積極的民主党支持者っていうのはいなかったんじゃないかと思えてきた。
今回も「民主党はクソみたいな素人集団だったから、ダメだな。こいつらには任せておけない。やっぱり自民党みたいなノウハウが蓄積されてそうなところに任せないといけないんだよな」という風になっていて、あとは味付け程度に第三極がある位置づけを僕はしている。

細々としたマニフェストとかアジェンダとか公約とかで選びなさいと言われても、論点が多すぎて自分の意見と完全に一致することはできない。
そもそもどの政策をすれば景気が良くなるとか国際情勢の中で有利になるとかよく分からないけど、一応考えを持っているとして考えてみる。
例えば、5つの政策について○・✕だけの一致を試みても2の5乗だから32通りある。だから幾つかの政策については諦めなくてはいけない。
この成熟した民主主義国家の国民達は、代議員の選挙の投票の時からある程度の諦めを必要とするのだ。まあ成熟した市民なら大丈夫だという見方もある。
おそらく明日僕が投票しようと決めた候補者と僕の間には考えが一致する政策としない政策がある。で、一致する数はおそらく1つか2つくらいだと思う。これは投票しない候補者にも言えるなあと思う。だって1つか2つくらいだったら誰とでも意見の一致は見込める。維新の会とだって一致する考えが1つくらいはあるだろう。
だから、要するに僕は政策だけでは誰に投票するかを決められない。
参った。

候補者の人となりとか雰囲気とかキャリアとか顔とかしゃべり方とか実績とか手の振り方とかで決めちゃうかもしれなくて、要するに「何となく○○党」と決めちゃう可能性が高い。

こうなってくると最早、考えずにぽいっと投票するのと、熟考してえいやっと投票するのと変わらない気がする。割と考えても、考えないのと変わらないんじゃ、「たかが一票」なんだから「面倒だし行かなくてもいいや」という心情も理解できる。

どこが政権をとっても、気に障る政策をやるだろうし酷い失敗をするだろう。その時に自分が投票した政党だったり候補者だったら、「あの時入れなきゃよかった」と思う。断言できる。
だから僕は「政権をとらないところに投票したいな」という気持ちがある。そうすれば与党が失政をした時に「あ〜だからダメだと思ったんだよな。あんなところに投票したやつがダメさ」と言えるから。

そうなると「白紙」が一番それに近いが、「白紙」をいちいち出しにいくのかと思うと気が乗らない。
「二番目の得票率の人に投票したい」という希望を書くか。絶対「無効票」になると思うけど、こちらの意思は出せる。それが社会に届かないだけ。

それにしても面倒だ。憂鬱だ。滅入ってくる。

2012年9月10日月曜日

さようなら本たち2

また自炊した本たちを処分するため、そのタイトルを記す。 【立花隆】 「青春漂流」 「文明の逆説」 「田中角栄研究(上)(下)」 「中核VS革マル(上)(下)」 「日本共産党の研究(一)(二)(三)」 「同時代を撃つ(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)」 「巨悪VS言論(上)(下)」 「人体再生」 「精神と物質」 「エコロジー的思考のすすめ」 「マザーネイチャーズ・トーク」 「サル学の現在(上)(下)」 「宇宙よ(上)(下)」 「宇宙を語る(Ⅰ)(Ⅱ)」 「脳死」 「脳とビッグバン」 「立花隆・100億年の旅」 「サイエンス・ミレニアム」 「サイエンス・ナウ」 「21世紀 知の挑戦」 「電脳進化論」 「脳を究める」 「宇宙からの帰還」 「脳死臨調批判」 「脳死再論」 「臨死体験(上)(下)」 「生、死、神秘体験」 「証言・臨死体験」 「アメリカジャーナリズム報告」 「アメリカ性革命報告」 【内田樹】 「ひとりでは生きられないのも芸のうち」 「映画の構造分析」 「身体を通して時代を読む」 「ためらいの倫理学」 「大人は愉しい」 「街場の大学論」 「街場の現代思想」 「街場のアメリカ論」 「子どもは判ってくれない」 「私の身体は頭がいい」 「知に働けば蔵が建つ」 【吉本隆明】 「カール・マルクス」 「書物の解体学」 【辺見庸】 「もの食う人びと」 【河合隼雄】 「こころの声を聴く」 【梅棹忠夫】 「文明の生態史観」 【森博嗣】 「スカイ・クロラ」 「すべてがFになる」

2012年8月28日火曜日

さようなら、本たち。














スキャナと裁断機を購入し、長年にわたり僕の部屋の大半を占拠していた書籍を電子書籍化することにした。その第一弾。
以下著者別タイトル。

【村上春樹】
『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険(上)(下)』
『ダンス・ダンス・ダンス(上)(下)』
『アフターダーク』
『辺境・近境-写真篇-』
『東京奇譚集』
『日出る国の工場』

【吉本隆明】
『共同幻想論』
『最後の親鸞』
『言葉の沃野へ(上)(下)』
『少年』
『わが「転向」』
『語りの海 吉本隆明』
『悪人正機』
『超資本主義』
『日本近代文学案内』
『ひきこもれ』
『世界認識の方法』
『対話 日本の原像』
『追悼私記』
『夜と女と毛沢東』

【河合隼雄】
『「日本人」という病』
『働きざかりの心理学』
『ナバホへの旅 たましいの風景』
『猫だましい』
『心理療法個人授業』
『ブッダの夢』
『仏教が好き』
『こころの処方箋』

【三島由紀夫】
『金閣寺』
『葉隠入門』
『文章読本』
『行動学入門』
『若きサムライのために』
『三島由紀夫レター教室』

【司馬遼太郎】
『日本人と日本文化』
『司馬遼太郎の日本史探訪』
『歴史を考える』
『人間の集団について』

【森見登美彦】
『きつねのはなし』

【橋本治】
『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』
『恋愛論』

【石田衣良】
『4TEEN』
「スローグッドバイ」
「娼年」

【中島らも】
『しりとりえっせい』
『こらっ』

【吉本ばなな】
『とかげ』
『キッチン』

【村上龍】
『音楽の海岸』
『限りなく透明に近いブルー』
『村上龍全エッセイ』

【オースター】
『幽霊たち』
『シティオブグラス』

【太宰治】
『人間失格』
『斜陽』

【岸田秀】
『ものぐさ精神分析』
『続 ものぐさ精神分析』


【養老孟司】
『身体の文学史』
『あなたの脳にはクセがある』



【森博嗣】
『冷たい密室と博士たち』
『笑わない数学者』


【その他】
筑紫哲也『若者考現学』
カーソン『沈黙の春』
小澤征爾『ボクの音楽武者修行』
三谷幸喜『気まずい二人』
国木田独歩『武蔵野』
トルストイ『人生論』
糸井重里『ほぼ日刊イトイ新聞の本』
ホーキング『ホーキング、宇宙を語る』
小島寛之『世界を読みとく数学入門』
小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか』
筒井康隆『文学部唯野教授』
坂口安吾『堕落論』
遠藤周作『沈黙』
谷崎潤一郎『文章讀本』
梅原猛『日本文化論』
木田元『木田元の最終講義』
ヘッセ『幸福論』
ワトソン『二重らせん』
三木清『人生論ノート』
カミュ『異邦人』
カフカ『変身・判決・断食芸人』
ニーチェ『この人を見よ』
ヘミングウェイ『老人と海』
サリンジャー『フラニーとゾーイ』
ねじめ正一『かなしい恋愛』
外山滋比古『思考の整理学』
中坊公平『罪なくして罰せず』
野中広務『私は闘う』
中村修二『怒りのブレイクスルー』
宮沢賢治『風の又三郎』
谷川俊太郎『谷川俊太郎詩選集1』
芥川龍之介『蜘蛛の糸・杜子春』
寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』
フロイト『夢判断(上)(下)』
澤田昭夫『論文の書き方』
立花隆『新世紀デジタル講義』
安部公房『砂の女』
宮部みゆき『R.P.G.』
松尾スズキ『ぬるーい地獄の歩き方』
宮本輝『五千回の生死』

2012年8月25日土曜日

これから観たい映画2012


NEWSWEEKに載っていた映画で観たいもの。

プラハの春
「存在の耐えられない軽さ」
「ひなぎく」
「つながれたヒバリ」

ヒッピー・ムーブメント
「カッコーの巣の上で」
「ウッドストック 愛と平和と音楽の3日間」
「イージー・ライダー」
「ある愛の詩」

ハードボイルド
「マルタの鷹」
「三つ数えろ」
「動く標的」
「ロング・グッドバイ」

ウォーター・ゲート事件
「大統領の陰謀」
「フロスト×ニクソン」
「ニクソン」

ジョン・レノン暗殺
「チャプター27」
「イマジン/ジョン・レノン」

グレナダ侵攻
「ハードブレイク・リッジ 勝利の戦場」

フォークランド紛争
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」

東西冷戦
「フェアウェル さらば、哀しみのスパイ」
「カフェ・ブダペスト」
「タクシー・ブルース」
「グッバイ、レーニン」
「善き人のためのソナタ」
「トンネル」

日本
「ティファニーで朝食を」

ユーゴスラビア紛争
「サラエボの花」
「ノーマンズ・ランド」
「あなたになら言える秘密のこと」
「ウェルカム・トゥ・サラエボ」

イスラエル・パレスチナ問題
「パラダイス・ナウ」
「キブールの記憶」
「D.I.」

ルワン土虐殺
「ホテル・ルワンダ」
「ルワンダの涙」
「ルワンダ 流血の4月」

IT
「ユー・ガット・メール」
「マイレージ、マイライフ」

ユーゴスラビア
「アンダー・グラウンド」

クローン
「わたしを離さないで」

9/11
「ユナイテッド93」
「ワールド・トレード・センター」
「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」
「再会の街で」
「グアンタナモ、僕達が見た真実」
「大いなる陰謀」

イーストウッド
「ミスティック・リバー」

リーマン・ショック
「キャピタリズム~マネーは踊る~」

2012年3月21日水曜日

仕事を始めて初の年度末は思ったよりも忙しくなくて、拍子抜けした。忙しさから解放されて考える時間が増えると、これから来るであろう仕事の辛さを想像して厭な気分になっている。仕事には辛いこともあるが楽しいこともある(はずだ)という当然のことを都合よく忘れてしまって、おれはいつまでこの仕事を続ける気だろうかと自分自身へ問いかける。1年だろうか3年だろうか5年だろうか。年度が変わるこの期間を今いる場所で何度経験するだろう。それまで耐えられるのか。いや、そんな先のことではなくおれは明日を乗り切れるのか。
そういう不安を感じても、それを消すわけでもそれと対峙していくわけでもなく、ただただ見ないように忘れるようにするだけしかない。対峙なんかしたら、不安に潰されてしまいそうな弱い自分がいる気がするからだ。でもこんなやり方はいつまで続けられるのか。
何も分からない。

2012年1月1日日曜日

謹賀新年

明けましておめでとうございます。
僕が書くまでもなく、昨年2011年は大変な1年でした。国内では震災と原発。国外ではアラブの春。 震災の津波ではお世話になった陸前高田の方が亡くなりました。 地震が起こった時、僕は東京の家にいました。以前から起こると言われている東海地震かと思うほどの揺れでした。まさか震源地がとても離れている東北地方とは思いもしませんでした。そうしてテレビをつけると、ヘリコプターの視点から僕の知っていた陸前高田の街が、逃げ惑う車と共に津波に飲み込まれていく様が映し出されていました。その映像を見ながら僕は、何か大きな存在に対してもうやめてくれと心の中で訴えていました。 何もできないけれど何かをしたいと思い、知り合いの安否をインターネットで調べ始めました。知り合いの生存が少しずつ確認されていきました。 僕がお世話になった陸前高田の集落は山間にあったのでほとんどの方が大丈夫でした。しかし、生存確認ができないまま1週間、2週間、3週間、1ヶ月、2ヶ月と過ぎていき、生きていないことを認識した人も何人かいました。 その場へ行って何かしたいと思いながらも行ってどうするんだとも思い、時間が流れていきました。そうこうしている間に知り合いの遺体が見つかったので葬式があるという話を聞き、陸前高田へ行くことにしました。 どんな状況なのか映像で見ていて知っているつもりでしたが、まったく何も分かっていませんでした。僕が行った時は震災からもう半年経っていて、錆びたクルマや瓦礫は集められていて、それ以外の場所は5箇所ほどの大きな建物と何もない空き地になっていました。それは僕が子どもの頃に見ていた古い工場とその隣にある空き地を思い出させました。その場所に立って津波の痕跡を見上げると、そのあまりの高さに僕は言葉を失いました。
あれから3ヶ月経っても、僕の中では全く整理できていなくこれから先整理し得るのか分かりません。ただ、僕が10月から仕事を始めたことは、一連の出来事で僕が感じた、自分の無力さと少なからず関係があります。 これまで何となく震災のことや震災をきっかけにして変わった個人的なことを書くことは気分が乗りませんでした。しかし、やはり僕にとってどんな位置付けの1年だったのかを書き記しておきたい気持ちはありました。未整理で未消化の事柄で、核心の部分はほとんど書けていないけれど、少しは形にできて良かったです。
本年はいい年であることを切に願います。それでは今年もよろしくお願いします。