2011年2月28日月曜日

カンニング

京大や立教や同志社や早稲田の入試でカンニングが発生したらしい。入学試験の時間中にヤフー知恵袋というサイトに入試問題が投稿されていたという話だ。まあ、そういうこともあるだろう。実際にあの問題は受験生がカンニングをしていたという問題だとして色々考えた。
カンニングこれを単純な入試のカンニングの問題と捉えて、犯人を見付け出して、息の根を止めればこの問題は解決なんだろう。しかしそうすることは社会的にちっとも有益ではない。なぜ、学力に見合わない大学にカンニングをしてまで入ろうとするのかを考えなければ、さらに巧妙な手口のカンニングは起こるし、カンニングは見つかりさえしなければやったもの勝ちということになる。多分社会の多くの人はそういう社会を望んでいない。
この問題の本質は「偏差値の高い大学に入学しさえすればいい」というところだ。それはつまり、大学は入学しさえすれば卒業はほとんど問題ないということ、今の日本の社会で優秀な大学の名前は水戸黄門の印籠のような役割を持つこと、の二つの具体的問題が挙げられる。今の大学生はほとんど勉強していないというよくある話は本当だと思う。昔の学生が勉強していたかどうかとかは分からない。大学生が勉強をしていないというのは授業の出欠の問題ではなく、試験前の徹夜での勉強やレポート作成、試験の点数や授業の成績評価の問題でもないのだけど、大学生がどうあるべきかという論題はまた別の機会にする。ただこの場で整理しておくべきことは、現在の大学は中身も外見も歪んでいるものだということである。
そして同時にこの問題について語るとき、その語り手がどのような立ち位置なのかを明らかにしておかなければ水掛け論になる可能性が高い。つまり、実力以上の学歴を持っていると思っている人間は学歴の方を見て欲しいだろうし、学歴以上の実力を持っていると思っている人間は学歴には目を瞑って貰いたいと思う傾向があるだろうという前提がある。学歴も実力もあると思っている人間はどちらでもいいと思うだろうし、どちらも持ってないと思う人間はもはやどうでもいいと思うだろう。要するに、実力を見て欲しい人と学歴を見て欲しい人が意見を闘わせていてその二者が問題を問題にしていて、どちらの論もそれなりに正当性のあることが言える。
僕は大学入試の第一志望校の結果は不合格だった。その試験中に不合格が濃厚だと気づいたとして、カンニングをする絶好の機会があったら、僕はカンニングをしていたかもしれない。それは分からなくて、絶好の機会のその度合いによると思う。例えば、意図せず隣の人の答案が見えてしまい自分の答えが間違っていることに気づいたら、間違いなく僕は答案を書き直しただろう。それだってカンニングの一つである。それは一般の社会では間違った行いだろうが、受験戦争という言葉に表されるように受験界は変な社会なのだ。成績がトップに近ければ人間的に優れていて、そうでなければ劣っているかのような扱いを受ける場合が多い。そして最終的にどこの大学に合格したのかがその人の人間の価値を決めるという世界が受験界だ。もっと言えば、有名大学なのかとか偏差値の数値が問題なのだ。そういう殺伐としている歪な社会にどっぷり浸かっている人間に、高潔な道徳心を植えつけようなんて難しい話だ。だって、本来ならば高校の勉強でさえ大学入試とは直接の関係ないというのがあるべき姿だろうが、今の進学高校は大学入試の予備校とそこまで変わらない。そして勉強の面白さを見出すことは無用で、効率よく知識吸収しそれを試験の解答欄にアウトプットさせる能力が重要とされる。その「効率よく」の部分を歪曲して解釈すれば、「勉強しなくても合格さえすればいい」ということになりうる。今回のカンニング問題もそういう観点で考えれば、ただの大きな博打に過ぎず、山をはるのと変わらない。失敗するかもしれないけど、もしかしたら合格するかもしれないという点で話は同じである。
僕は今回のカンニングをした受験生はよくないと思う。ヤフーのログを調べれば投稿者を特定できるかもしれないので、見つけて罰するという権利は大学側にある。犯人が特定されたとしても必要以上に叩くのはやめるべきで、必要以上に大学の名前やら偏差値やらを崇めることを叩くべきだということを肝に命じましょう。

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