2010年12月31日金曜日

年賀状

大晦日に年賀状を書き上げた。実家で印刷しようと思ってデザインを作りながら帰省したのに、実家のプリンタの使用法を誰も知らないので手書きするはめになった。ハガキみたいな白紙に文章を書くのは難しい。ノートのように線があればまだマシなんだけど。近所の本屋でハンコを買い、喫茶店で書いて押し書いて押しを繰り返し何とか終えた。最初の2枚と最後の2枚以外は丁寧に書いたけど、あいだの何枚かは字は汚いし、ハンコを押すのさえ失敗しているものもある。

年賀状を書いていると今年とか本年とか昨年とか去年とかいつのことだか混乱することがある。書いているのは2010年だけど相手が読むのは2011年だから本年は2010年を意味せず2011年を意味するわけだ、なんてことは瞬時に判断できないから思わず「来年もよろしく」なんて書きそうになる。今回、その失敗はしなかったけど、「いま九州にいます」を「いま丸州にいます」なんて書き間違いをしてしまった。書いてすぐに気づいたけど、ペンで書いたので消せない。しようがないから丸のノの部分を太くして州と書いた。こういう字の間違いはパソコンで作る年賀状にはないだろう。変換ミスという形に姿を変えているんだろうか。テクノロジーが進んでも使うのはついうっかりする人間なのでうっかり間違いは起こり続けるだろう。

年賀状が手書きになったので、整理解雇された2011年ウサギくんはこのブログに登場してもらうことにする。2011年最初のブログにその姿をお披露目することになる。

2010年12月28日火曜日

帰省

あと3時間したら電車に乗る。
祖父母の家に泊まる。

先日、91才の祖父が肺炎になって入院していた。
僕も6年前に肺炎になって40度の熱を出してその辛さが分かっていたので老人には耐えられないかなと思い覚悟していたけど回復して、明日退院するようだ。
よかった。一安心である。

さあ旅の準備の仕上げをしなければ。

2010年12月24日金曜日

誕生日

今年も12月24日になった。
僕にとっての12月24日はクリスマスイブではない。
僕の誕生日である。
年齢が一つ加算されて26才になる。

12月24日が誕生日だと同情されることは多いがそれほどのことでもないと思う。
誕生日ケーキを買おうと思ってもメリークリスマスのプレートつきのケーキしかないとか、誕生日のプレゼントはもらえないとかあるけど、誕生日を覚えてもらいやすいメリットがあったりするので、どちらでもいい気はする。それよりもっと年末に近づいていくとかわいそうな気がする。大晦日や正月に誕生日だったりすると、多くの人に忘れられる。

12月24日は、村上春樹の「風の歌を聴け」の主人公「僕」の誕生日でもある。

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「冬にはまた帰ってくるさ。クリスマスのころまでにはね。12月24日が誕生日なんだ。」
(「風の歌を聴け」134ページ)
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「ハッピー・バースデイ、
そして
ホワイトクリスマス。」
と書かれている。僕の誕生日が12月24日だからだ。
(「風の歌を聴け」149ページ)

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ついでにこの「僕」は大学で生物学を専攻しているところも僕と同じである。だからこれは僕について書かれた物語であるというのは早計であるが、何かを暗示していると考えてみる。つまりこれから僕は「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」的生活を送るのかもしれない。
そういう人生でありたいと思う一方で、あれは大変そうだなと思う。

2010年12月18日土曜日

読書

毎月15冊読みたいけれど、なかなかそういうわけにはいかない。
極限まで無駄を削らなくとも達成できそうな数字であるけど、いっぱいいっぱいである。

僕が本を読む、大きな理由の一つは知識を得ることである。
大学に入りたてのころ、複数のサークルとNPOに入った。その中で活動を続けていきながら、いくつかのことを学んだ。
ギターを弾く人は傲慢な人間が多い。不思議なことだけど、傲慢な人はドラムやベースなどに比べて圧倒的にギターが多い。僕は見た目で威圧しているので傲慢な人間からの面倒な出来事は回避することが多いけど、それでも何回かそういう面倒に巻き込まれたし、同期の友人たちは一層巻き込まれていた。
音楽バンドの中でボーカルとギターは花形であるから、目立ちたい人がそれを務める。というよりも目立ちたいからそれを練習するわけだけど。ギター、とくにエレキギター奏者は難しいギターソロを弾くことに情熱を傾ける。そうした楽器の練習は孤独である。孤独をいつの日からか孤高と考え出すようになる人間が多いんじゃないだろうか。という理論を僕は考えた。
僕はギターが下手なのでギター至上主義者から見ればゴミみたいな存在として扱われていた。でもそういうのにいちいち腹を立てていたらいけないということに気づくのは、ギターサークルをやめた後であって、いつもイライラしていた。
ギターサークル以外のサークルや学科やNPOでも何かしらの順列があって、何だか理不尽なことが幾度もあった。
そういうのを避けるには相手を完膚なきまでに叩きのめすしかない。それは暴力以外の方法では理論武装しかないという結論に達し、知識習得のため本を読み進めるようと思っていた時期もある。
最近はそんな攻撃的なことは考えていないけど、物事を正しく考えたいがために知識を得たいと思っている。

2010年12月16日木曜日

みかん

みかん。ずいぶん前に知り合いからもらったみかんがあって、そのみかんは時期はずれのものだったから味が薄かった。
甘いくても酸っぱくても濃い味のみかんが好みの僕は、その薄味のみかんは放っておいた。キッチンにあるメタルラックの一番上の段に置きっぱなしにしていた。一番上の段だからみかんの状態はあまり見えない。でもまあ辛うじて見える範囲では全然問題ないようだったので放置をし続けた。捨てればいいのだけど食べ物を捨てるのは憚られるから食べられない状態になるまで待っていた気持ちも少しある。いや、腐らなかったら一年でも置いておいただろうから少しの気持ちではない。
そのみかん群は見事に腐っていた。遠慮なく腐っていた。あれほど腐っているみかんは見たことない。
みかん群の一番下みかんはもはやみかんの形ではなかった。ナウシカの巨神兵の最終期みたいな状態。みかんがカビを侵食しているのがみかんなのかすら判別できない。写真を撮りたかったけど、気持ち悪くてやめた。

2010年12月15日水曜日

平川克美氏講演

立教大で行われた平川克美さんの講演会に行った。平川さんは、ビジネス成功への方策は戦略を立てることではなくいい商品を作ってそれを売ることであるという。僕は著書でその考えを知っていたが、改めてそう聞くと新鮮に聞こえる。しかし当然過ぎるほど当然な話である。
それを説明するのに二重の交換とInvisible Assetという話が出た。二重の交換とは、モノとお金の等価交換と商品や企業に対する信用と信頼の不等価交換。Invisible Assetは「眼に見えない資産」であり、BS(貸借対照表)やPL(損益計算書)はこのInvisible Assetの後からついてくる結果の話であるという。ふむふむと納得する。

僕は今までビジネスについてまともに勉強していたわけではないから、ビジネスについての考え方やそれに関連する用語についての知識はテレビなどのマスメディアから無尽蔵に送られてきた情報からしか得ていない。そうして得てきた情報を思い返してみると戦略やビジョンの持ち方などに関するものが多いかもしれない。もしかしたら平川さんの主張のような意見を聞いていたとしても、そうではないものにかき消されていた可能性もある。
実際に第一線で働いている経営者からそういう当然の事柄が聞けてよかった。

思考形成は家族から始まる。その前提からのエマニュエル・トッドの家族制度と会社の関係の話も面白かった。しかし僕が考えさせられたのは「自分で考える」ということ。

よく聞く。「自分で考える」ということは色んな人が色んなところで話していて、僕はその度に「よく分からないこと」にカテゴライズして、その問題から通り過ぎていた。しかし今回、平川さんから聞いたその話は不思議なことにいつものように通り過ぎることはできなかった。
それで「自分で考える」について自分で考えているのだけど、考えれば考えるほど難しいことに気づく。自分の知識は読者など外部からの情報によるものから形作られていて、無意識のうちに人が考えたことを流用しているだけかもしれない。
そういう観点から考えると、読書によって新たな知識を得れば得るほど自分で考える領域が減るのだろうか。でも読書が悪いことだとは思いたくないという気持ちは強くある。そういうジレンマに陥った。

とにかく今日の講演会は有意義だった。また聞きたい。平川さんは来年4月から立教MBAコースの特任教授に就くらしい。MBAという選択か…。

2010年12月10日金曜日

ノルウェイの森

明日から「ノルウェイの森」の映画が公開される。
観に行きたいような、行きたくないような。
好きな小説の映像化作品に興味や関心はあるが期待は抱けない。いま胸中にあるのは、観た後に感じるであろう失望への恐怖だ。やっぱり映像化なんかしない方がよかったという感想をきっと持つだろう。これはほとんど決定的だろうから、問題はどの程度の失望なのか、許容範囲内か、ということでしかない。
ありとあらゆる酷い感想が想定できても、映像化への興味に負けて観に行く気がする。

そういうことを考えて、公式サイトを見た。
たぶん予想は外れてないと思う。

2010年12月7日火曜日

松本いき


この土日、長野の松本へ行ってきた。知り合いの家だ。
松本はだいたい標高700mにあるらしいので、東京スカイツリーよりも高い位置にあるらしい。
そういえば、高速バスで松本に近づくにつれて、気圧の変化で耳がおかしくなっていったのを思い出す。
そういうわけで松本はとても寒かった。朝は、水たまりが凍っているくらい寒い。
そうは言っても僕が滞在した二日間はとても温かい日だったらしい。
写真は日本アルプス。とてもくっきり見えた。これだけくっきり見えるのは珍しいそう。

松本の夜に見える星の数は多かった。先日、帰省したときに見た九州の夜空にも星がたくさんあった。
あらためて東京で見える星の数の少なさに気づく。

ふだん見えてないことに気づくのは見えたときだけだ。

2010年12月3日金曜日

時間銀行

友人が時間銀行についての悪口を書いていたから、
僕も時間銀行について文句を書こうと思う。


時間銀行とは、時間の価値をお金を例に説明するものである。
①毎朝、銀行に入金がある。
②そのお金は期限付きで24時間後に消える。
③お金を使っても使わなくても別の問題は起きない。
④このお金のように時間も毎日消えていってる。


いや、もったいない。
誰が考えたのか知らんけど、ひどい考え。
ひどいというのは言い過ぎか。
少なくとも無駄話だ。


なるほど。時間銀行を批判する時間すらもったいない。
さっさと文句を書こう。たくさん問題があるけど一つに絞る。

二つ以上のものを比べるとき、普通は共通点と異なる点を列挙する。
それで、この観点では共通していて、あの観点では異なっている、という形にしなければならない。

お金と時間についても同様に考えてみる。
僕が想像しうる2つの共通点は「大事だ」ということだけである。他にあるだろうか。

時間銀行の説明では、何もしなくてもお金が入ってきて消えていくという仕組みを創りだして、時間との共通点を作る。


だから僕が時間銀行を気に入らないのは、無理に作られた共通事項から出発して、あまりに自明である共通点「大事だ」という結論へ落としていることだ。つまり、無理やり共通事項を作り出せば、どんなものでも置き換え可能である。


友情って大切だ。お金も大切だ。この2つで友情銀行という概念を作る。
①友情の質と量によって入金がある。
②日々刻々その入金額は変化する。
③関係が悪くなると入金額が減る。
④このお金のように友情も変わる。

だから友情は大切にしよう。こんな具合か。
少し違うかもしれないけど、それを指摘するなんて行動はもったいないと思います。