2011年11月6日日曜日

東京に住むこと

先日、友人と東京を歩いた。

長期的には東京で暮らしていくことはないだろうなあと最近思う。
僕が働いているのは目黒や五反田で、仕事をしながら生活者たちの表情をそれとなく見ているが、大変そうな顔をしている人が多い。ビジネスマンは無表情だし、母親たちは子どもを乗せた電動自転車をすごい勢いで漕いでいて、その顔は必死の形相だ。普通の生活とやらは、ある時は必死にある時は感覚を殺すことが必要なのかもしれない。

そんなこの街でそこそこの暮らしをするにはだいぶ稼いていかなきゃいけない。僕がそれくらい稼げるのか疑問であるが、それ以上に僕自身がこの街でその生活をすることに向いていない感触がここのところしている。そんな僕にとっては普通以上のタフさが要求されるのだろうか。

そんなことを考えながら働いている。いつか決めるべきタイミングが訪れるのだろうか。

2011年10月26日水曜日

僕が働いてる・・・

仕事を始めて4週目に入った。先日、始めての給与が入った。しかし働いたのは半月だから給与も半分で、健康保険と年金で少ない給与がさらに少なくなった。
ああ僕らは貰えないんだろうなと思いながら年金を払うのはわびしい。払うと言うか徴収されていると言ったほうが正しいのかもしれない。これから国民としての義務を果たしていくのだなと誇らしい気持ちも少しある。
これまで穀潰しだったから、それの反動かもなあ。

さて4週目の現在、すこぶる順調である。早起きして職場の最寄り駅近のカフェで朝食とコーヒーをとり読書して働いて、昼食を食べてカフェ読書をした後、午後の勤務に入る。勤務後、疲れをとるためにカフェで読書をする。勤務後はたまに先輩と飲みに行くが、基本的に読書の時間をいたるところに入れて充実の日々が送れている。

3日3月3年で仕事を辞めたくなるらしい。確かに3日目くらいで辞めたくなった。最近でもドアを出て一歩進んで、家に戻りたい日もある。次は3月目を乗り越えないといけない。でもまあ、なんとかなりそうな始まりです、今のところ。

2011年10月11日火曜日

時は金なり

仕事帰ってきて、ご飯食べて洗濯と次の日の準備して寝て起きて仕事行く。
というパターンで日が過ぎる。

仕事の行き帰りの電車の中で、朝食を食べる喫茶店のとき、昼休みの休憩中に、帰ってきて用事を済ませる間や前後の時間など、自由に過ごせる時間は溢れているけど、まだそれをうまく活用できない。

この時間をきれいに使っていくことが、これから先はとても大事になるのだと思う、何に使うにせよ。

2011年9月25日日曜日

夏草や兵どもが夢の跡

陸前高田に行ってきた。お世話になった方の通夜と葬式に参列するためだった。津波で行方不明となり半年経って遺体が見つかったようだ。遺体が見つかるだけ良いという話をしていた。最悪な中だけど幸運な方と言う。誰もが家族や親戚や友人を亡くしている。

式の空いている時間を使って、陸前高田の市内を見て回った。津波から半年経ち瓦礫は大部分が撤去されていて、季節は春と夏が過ぎ秋になろうとしている。町全体が流されすべてが瓦礫の山となり、瓦礫の山は撤去され空き地になった。今ではその空き地には草が生えてかなりの高さまで成長していた。
そこで僕は芭蕉の俳句を思い出した。

2011年8月4日木曜日

試験後

8月2日に試験があった。税理士の科目試験だ。今年の東京の試験会場は東京ビッグサイトだった。クーラーの節電のためだろう、広い空間に何千もの机と椅子が並べられているという異様な雰囲気でもあった。
試験の出来はよく分からない。できてはいるが、ほとんどは計算問題だ。感触はよかったが、数値が違っていたら惜しくても駄目だ。発表まで分からない。発表はいつものように12月だ。

ここ最近は試験勉強くらいしかしていない生活だった。そんな生活とプレッシャーから解き放たれたのはいいことだが、他にやりたいことがないのでそれほど嬉しい感情は湧いてこない。合格発表がでるまでの間が長いことや、その間生殺し状態が続くことも要因だろう。

そしてこれまで試験があるからと言って、避けてきた諸問題に直面しなくちゃならない。複雑で重要な問題がたくさんある。これからどこに住むかや働くことなど根本的な問題だ。もう目を背けていられない。それなのに未だに僕は試験が終わってから虚脱感をまとい、出来るだけ問題の解答の期限を先延ばししたいと思っている。

今日読んだ本のある一節が妙に心に響いた。

「わたしたちはふつう、成長するということはさまざまの属性を身につけていくことと考えているが、ほんとうは逆で、年とともにわたしたちはいろいろな可能性を失っていくのではないだろうか。(『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一)」

僕は「可能性を失っていく」ことをおそれすぎている気がする。だから問題の解答の選択に悩んでいる。正しいか正しくないかで悩んでいるわけじゃない。選択することによって消えていくあの可能性やこの可能性の価値の甲乙を量りかねているのだ。こんなおそれはそもそも破綻していることは分かっているのだが。

2011年7月10日日曜日

気 趣 偏 考

先日、携帯電話を変えた。4年振りである。4年前は最新機種だった携帯も毎日毎秒の労働により満身創痍になりいろいろと不具合が出てきた。4年だからおよそ1億2千万秒の間、ほとんど休みなく電波を待っていたのだ。ほとんどの時間をともに過ごした携帯に情がわいた。お疲れさん、ゆっくりしてくれと思う。

新しい機種はスマートフォンで、スマートフォンにはボタンがほとんどない。必要に応じてタッチスクリーン上にボタンが発生する。そこがスマートフォンのいいところであるが、悪いところでもある。今まではだいたいどんな問題が起きても、電源ボタンさえ押せば、重大な結果には至らなかった。しかしその電源ボタンがないのだ。買った当日の深夜に、友人の自宅へ発信してしまった。あわてて電源ボタンを押そうとしたが、それがない。あれこれして止めることができたが、深夜の友人宅に10数回コール音を響かせてしまった。

そういうことがあったので携帯電話の中にあった友人自宅の電話番号・二度とかけないであろう知人の電話番号などを全部消去した。二度とかけないと思っている人が、けっこうな数いた。そうして電話張の整理をしているときに、祖父母の家の電話番号を見つけた。祖父母は亡くなったので、もうこの家に電話をかけても誰も出ない、というか電話は解約されているはずだ。だからかけても繋がらないであろう、この電話番号は一番必要がないものだ。しかしその番号を消すとき、一寸躊躇してしまった。

たかが10ケタの数字の羅列の記録から、4年前は祖父母が生きていたこと、そこに住んでいたこと、しかしその電話番号をとうとう一度も使わなかったこと等、色々考えてしまった。

2011年6月28日火曜日

再会

震災後、初めて陸前高田の知り合いと会うことができた。会うことが決まってから緊張していた。相手の心の状態がどのようか分からない中でどこまで踏み込めるのかが、それを鈍感な自分に分かるのかという不安を抱えたまま対話しなければならないからだ。それを気にしながら話すのは緊張する。その心配は杞憂に終わったほど表向きは元気な様子だった。そうではないのだろう。
その方の話は恐ろしかった。津波が来る直前に一緒にいた人たちと別れて、違う方向に避難した何人かが亡くなったらしい。その生死を分けたのは逃げたところにたまたま津波が届かなかったという”たまたまのこと”だと言う。聞きながらうーむと思ってしまった。分かってはいたはずなんだが。あの日の大津波は人間の力を凌駕していて、テレビやネットから得た情報を元に冷静に論理的な想像を僕も巡らしてはいたのだが、体験した知り合いの声を通して聞いて僕の心の深くに届いた。
3月11日、僕は陸前高田に行く予定ではなかったが、僕があの街にいた可能性はゼロではなかった。もしかすればいたかもしれない。そして、個人の知恵や能力の及ばないところで生死が動いているということを直前まで一緒にいた人の死や若しくは自分の身を持って実感させられたかもしれない。
恐ろしい話だ。そしてどうしようもない。
だから僕はその方が生きていてくれて嬉しいということを伝えた。悲しいほど陳腐なセリフだが。

2011年4月29日金曜日

ダライ・ラマの手




護国寺まで東日本大震災犠牲者特別慰霊法要に行った。ダライ・ラマ14世が来ていたので簡易金属探知機ゲートをくぐり手荷物検査をされた。かなりの数の人が法要に参加していた。あまりに多くて本殿までは辿りつけず、本殿前に用意された椅子にさえ近づけなかった。さらに途中で雨が降ってきて参加者が傘を差し始めて、法要の行われている本殿が全く見えなくなったので、法要が終わる少し前に出口まで戻った。
出口でぼーっと休憩していたら、横綱の白鵬関に遭った。どうやら法要に参加していたようで、付き人を引き連れ威圧感たっぷりに僕の3mくらい前を歩いて通った。
その後、ダライ・ラマが黒い車に乗って出てきた。写真を撮ろうと思いシャッターを押したけど、車が速くて窓から出ている手しか写らなかった。

2011年4月28日木曜日

昭和の日

今日、4月29日、みどりの日あらため昭和の日。

4月28日で震災から49日。
3月11日の映像がショッキングだったのとそんな映像を繰り返し見てしまったから、普段の生活を送っていてもあの日を引きずっている気がする。あれから49日経ったと言われても、昨日のことのような一昨日のことのような不思議な時間の感覚の中に囚われている。

そういう中、護国寺で東日本大震災の特別慰霊法要が行われる。そこにチベット仏教のダライ・ラマ14世が来る。もともとアメリカに向かう途中で日本に寄る予定だったので滞在期間を延長するようにしたという話らしい。家から場所が近いから参加したいが、こういう場合はどういう服装で行くべきなのだろうか。やはり礼服なのか。普通の服装で行って、相応しくなければ様子をうかがって帰ってくることにするか。

ちなみにダライ・ラマと言えば、つい先日チベット自治政府の政治ポストを引退したらしい。
 インド北部ダラムサラにあるチベット亡命政府は27日、新首相に米ハーバード大学の研究員、ロブサン・センゲ氏が当選したと発表した。チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世の政治活動を支えるほか、ダライ・ラマ14世の政治的権限を引き継いでいく見通しだ。(International Buisiness Timesより抜粋)

2011年4月27日水曜日

違うタイプ

今日は1日が順調に進んで、今日はいい日だったなあと思いながら寝られそうだったのだが、さっき電話をして気分が悪くなってしまい、しまいには吐き気を催してしまった。簡単に言えば、誤解が原因で思いっきり感情をぶつけられた。その後、誤解であることを互いに理解したのだが、非常に疲れた。

僕はあまり感情を表に出さないようにしている。負の感情の場合は特に気をつけている。腹が立っても、悲しんでも、相手に感情をぶつけたところで良い結果はでないと思うからだ。それよりも理路整然と腹の立っていることや悲しみを伝える方がずっと建設的だと信じている。

そういう接し方をしていると僕の心は広いとか優しいとか勘違いされることがしばしばある。とんだ間違いであるが、僕はかなり広めの心を持っていると思われる。そんなことはない。むしろ人よりも心が狭いとさえ思っている。あれこれこだわりが色々あって、ある範囲を侵されたらとたんに不機嫌になる。不機嫌にはなるがただの不機嫌さは不毛だと考えて抑えているだけなのだ。不機嫌になると面白い話にして友人に話したり、twitterやブログに吐き出してランニングして奇声を発するかという極めて周囲に迷惑のかからなさそうな解決策に飛びつくようにしている。
それで収まらなくても、表に出さず腹の中にしまう。おそらく胃潰瘍になるタイプだ。よく胃液が出る。僕はそういう人間だ。

そうでないタイプの人間がいることを僕はよく忘れてしまう。思考過程とか価値観とか決定的に違う人がいるという明白な事実の認識はとても大事だ。まあそれを胸に抱いて日々生活しても、思いも寄らない部分に違いが潜んでいるから、誤解や摩擦や衝突が生ずるのを避けることはできない。
僕のタイプが水や氷で冷そうとすると、他のタイプの対極として火がちょっとついたら感情の塊を直球で僕に投げ込んでくる人がいる。激情型。熱い話をしていく。そういうタイプのやり方で非難をされたりすると僕も我を忘れてしまうことがある。貯めていた感情が吹き出してしまい、あとであれは言い過ぎたとか不毛だったなとか思う。その激情タイプの人はそれが正しいと信じてやまないようで、対極である僕のタイプとはおそらく永遠に理解し得ない。

かく言う僕も自分のタイプが正しいと思い、その理屈もつらつらと100種類は挙げられるがここでは挙げないことにする。おそらくどちらの極も正しいわけではなく、自分と相手の中間あたりの場所に正しさがあると考えるべきだ。というようなことを僕が書いても思ってもこれから起こるであろう様々なトラブルに上手に対処できるとは思えない。上手に対処するにはこれらのタイプがいて自分と相手の中間あたりに正解がありそうということを踏まえた上で、自分と相手の立ち位置や距離を見極めていかなければならない。これは次への課題である。

ただ表に出ないから感情をぶつけても大丈夫だというわけではない。人並みに心が痛むし、疲れるということを心に留めておいてもらえると僕にとって生きやすい世の中に近づく。

2011年4月19日火曜日

AidTAKATA陸前高田フォーラム レポ

2011年4月16日10:00@豊島区民センター
「第1回 Aid TAKATA 陸前高田フォーラム」
陸前高田市支援連絡協議会
参加者100名超 在京陸前高田出身者が多数
・今回は挨拶と現状報告のため開催
・これから先、長年の活動をしていく
進行順(以下敬称略)

村上 清
AidTAKATA代表
国連難民高等弁務官事務所 元 人事研修部長
陸前高田ふるさと大使
②震災前後のスライド
戸羽 太 市長
現地とスカイプ中継で挨拶
遠山 清彦
公明党 衆議院議員
元 外務大臣政務官
村上清と10年来の友人
公明党の復旧復興支援の座長
Peace Winds Japanの相談役(?)
猪口 邦子
自民党 参議院議員
元少子化担当大臣
小森 雅一
内閣府参事官(災害復旧・復興担当)
震災翌日ヘリにて岩手入り
連絡対策室 事務の取りまとめ
佐々木 信秋
陸前高田市
SaveTAKATA代表
黄川田 純也
陸前高田市出身
弁護士
在京で困っている学生などの支援
衆議院議員 黄川田徹(とおる)は親戚(本家)
西條 剛央
早稲田大学大学院専任講師
仙台市出身
「ふんばろう東日本支援プロジェクト」
南三陸町にて活動
Twitterを活用して必要な物資を拡散し収集
社協 8名しか残らなかったのでボランティアの受け入れは断っている
Amazonとの組み合わせ
被災地と支援する企業や地方自治体をつなげる
村上 清 挨拶
戸羽 太 市長 緊急声明発表
次回フォーラムに向けて
・よりお香の方々による活動報告
・パネルディスカッション
・参加者全員が情報交換できるようなプログラム

2011年4月17日日曜日

AidTAKATA陸前高田フォーラム

第1回Aid TAKATA陸前高田支援フォーラムに参加してきた。在京の陸前高田出身者と関係者が市の今後の復興の形を考えていくもので、今回の初会合は代表と参加国会議員の震災後からの動きや発足の経緯、skypeにより現地と繋いで陸前高田市長の挨拶などが行われた。今後は具体的な話し合いが行われるようである。
僕は陸前高田出身ではなく、大学の時に2度行き知り合いが何人かいるという、関係者などとは言えないくらいの関係でしかない。しかし、好きな町で好きな人たちだったからずっと気にしていた。お金も時間も特にない僕には出来ることなど限られているから、復興のプロセスを見守り、人に伝えることでもしようと思う。

2011年4月15日金曜日

佐賀県基山町のキャラクター「きやまん」が誕生



http://www.tokyo-chara.com/licenser/20110407.php
以下引用
佐賀県基山町が募集していた町のキャラクターに「きやまん」が決定した。

基山町では町事業等のPR効果を高めるため、町の良さや親しみを感じる「愛称」と「イメージキャラクター」を募集していた。そこに町内外から135点もの多数の応募があり、北海道の八谷早希子さん(35)の作品が最優秀賞に選ばれた。

デザインは基山町の自然や基肄城を守る「防人」をイメージ。兜には基山・秋光川がデザインされ、町の花つつじがあしらわれている。また、身にまとう鎧の中央には、基山町や基肄城を連想させる「基」の字がシンボライズされている。

同町では佐賀県・唐津市の兜姿のキャラクター「唐ワンくん」に続けと期待が高まり、今後は、公用封筒やチラシ、パンフレット等印刷物への掲載が予定されているという。


いや、恥ずかしながら我が故郷です。キャラクターブームはせんとくんあたりで終わったと思っていたんだけど。
まあかわいいキャラクターだけど、せんとくん以上に気持ち悪いキャラクターで勝負するとかインパクトがないと、キャラクター業界じゃ生き残っていけないですよ。ちなみに基肄城は元寇のときに建てた城です。今や石と岩とたて看板しかない状態なのにキャラクターに連想させて恥ずかしくないのかと思ったけど、そんなものはないんでしょうね。
ちなみに隣町の鳥栖市はとっとちゃんか。しかもメジロかよ。たしかにメジロはたくさんいるけど、僕はメジロと縁が深いな。しかしこっちのキャラクターも負けずにひどい。使用取り扱い要綱には
本市及びイメージキャラクターの品位を著しく傷つける恐れのあるとき。は使うなって書いてある。
このイメージキャラクター使うと、市の品位が傷つくんじゃ・・・いや、それともあれを使っても下がらないほどの品位しかないのか。


書いて1日経って調べてみたら、基肄城が作られたのは白村江の戦いの後らしく、元寇の時にも使ったということでした。

2011年4月11日月曜日

東京タワー





本日、青山に行ってきた。歩道橋から東京タワーが見えたので写真を撮ろうと思いカメラを構えた。デジカメの液晶に映るタワーはやはり少し曲がっているように見えた。

2011年4月9日土曜日

友達作戦

TOMODACHI作戦の範囲はどこまでかというのは邪推だろうか。

アメリカはおそらくほとんどのことにきちんとした戦略を持って臨んでいると思う。そんなにお人好しの国ではないから、世界各国でドンパチやってるのだろう。
それで日本の一凡人が推測するにTOMODACHIはイノセントなものではないはずだ。TOMODACHIとして助けるというよりはのちのち「TOMODACHIなんだからさ、これくらいいいじゃん」とか言うまでが作戦の範囲なんじゃないだろうか。
簡単に考えられるところでは、これからの在日アメリカ軍の問題が絡んでくるはずだ。かつての沖縄総領事のメア氏の暴言があったことは記憶に新しい。あの発言で失った信頼の回復という最低限の効果はすでに得られたのではないか。東北の人たちは感謝している人が多いだろう。文字通り命を救ってもらうわけだし、これからの生活の希望にもなるわけだから。首都である東京の人間たちもやはりアメリカがいないとダメなんだと思い知ってしまった。もちろん沖縄の人たちは何もしてもらっていないし反発はあるだろうし、メア氏の発言とは別だと主張するだろう。しかしこのままいけばこれまでと同様に沖縄県民の意向は無視される。ひどい話だが、それは最低ラインでそれ以上のことを要求されるかもしれない。
いずれにしても少なくとも我々はこのTOMODACHIの頼みを簡単に断ることはできなくなってしまったのは確かだろう。

2011年4月8日金曜日

余震はつづく

何だか参っちゃうや。余震は続くし、原発は不安だし、先行き不透明。
3月11日から僕は一気にひとりごとが増えてしまった。意味不明のうめき声をうなったり叫んだりしている。それをしないとまともにやってけない。それくらいで済んでいるとも言えるけど、これを長い期間、個人で受け止め続けてたら、身体に支障が出てくる気がする。
そしてこんな時間にお腹へった。

2011年4月4日月曜日

カエルグミ




ハリボーって、ドイツ製の有名な硬いグミ。
基本的にハリボーはどれも全部硬いが、その中でもこれは硬い。

その硬さも好きだけど、僕はこのかわいさの微塵もないカエルの形が気に入っている。
だぶんリンゴ味だと思う。カエルの味ではないはず、カエルを食べたことないが。

2011年4月3日日曜日

新年度

新年度になってうちのマンションの駐輪場からごっそり自転車が消えた。一夜のうちに。それまで10台近くあった自転車が、今では3台になっている。しかもそのうち2台は僕の自転車である。謎だ。
知らないうちに引っ越したのだろうか。うちのマンションといえば外国人の入居者が多い。もしかしたら原発の問題に恐れて故郷の国へ帰ったのかもしれない。
日本人であってもよく分からない状況なんだから、日本語がよく分からない人たちにとったらなおのことだろうし、僕がその状況だったら余程のことが無い限り母国に帰るだろう。
ただの推測だが、今の状況では説得力をもつ説として有効である気がする。
この国はそういう得体のしれない恐怖をはらんだ国になってしまったのだ。

たったひと月で本当に変わった。
たったひと月前は食べるものはただ食べていた。
たったひと月前は飲むものはただ飲んでいた。
たったひと月前は不安なく口にしていたのだ。
そしてひと月後はどうなっているだろう。

2011年4月1日金曜日

先日、東京に戻りました。

東京から九州に行く時の気分はまるで疎開だった。
余震はある、店に食べ物がない、停電があるかもしれない、原発がどうなるか分からない、どうにかなったときどうしようもない等、悩むことが多くて、その全ての問題の情報をいち早く得るべく、twitterでフォロワーを30人から一気に60人に増やした。すると1分と経たないうちに新しい情報が入ってくる。ほとんどは大した情報ではない。しかし、まれに福島原発など重要情報が入ってくるから、パソコンの前を離れられず、ほぼ1分毎に更新される情報のほとんどを逃さず見ていた。勉強の傍らで情報収集というよりは情報収集の傍らで勉強をやっていた。勉強は集中できず、情報が得られない時間があると不安になるため、家の外に出ることもなく、そうこうしているうちに日が暮れていくという毎日が過ぎていった。そして、余震ごとに目が覚めるから熟睡も出来ず、身も心もどんどん疲れ、あらゆる心配事についての思考を停止したくなったから九州に戻ったのである。九州に戻る新幹線は人がたくさん乗っていて、ほとんどの人が大きな荷物を抱えていたから僕と同じような考えだったのだろう。
そういう経緯で戻っていったけど、九州の人たちは気楽であった。東京と福岡や佐賀は1000キロ離れている。それだけ離れていると、東京の混乱というかピリピリした空気は全く別世界の話である。だから佐賀の家族や友人たちに、僕が東京から戻った経緯は伝わらないもどかしさが残り、しばらくすると僕自身も居心地が悪くなってきたので東京に戻ろうと思ったのであった。
空気や水に放射性物質が含まれていたり、本当に安全な野菜なのかとか、ペットボトルの水がないとか、原発は一進一退だとか、今でも色々問題があるけど、精神的にはだいぶんマシになった。
帰ってきてからほとんど人と会わず、引き篭もって勉強している。引き篭るのも悪くはないけど、言いたいことがどんどん溜まってくる。すると人と会ったときに話したいことが噴出する。噴出後はアドレナリンの影響なのか頭痛が起こる。頭がいたい。

2011年3月23日水曜日

備忘

自分の立場から離れて主張している人の話は面白くない。僕自身もそういうところはあるだろうけど。

ある問題について語るとき、自分の立ち位置はどこでどういう結論を出したがっているのかをまず自覚していないと、おそらくそうなる。それは等身大の一人の人間としての意見じゃないからだ。つまりどこかの誰かの意見を別の誰かが述べているにすぎない。それはつまらない。

2011年3月16日水曜日

地震

地震や原発のことについて、いま僕が出来ることはほとんどない。専門的な知識も技術もないし、寄付するお金さえない。せいぜい的確な情報を得て自分自身を守り、足手まといにならないよう行動することくらいだと思う。
むやみに貢献しようと思うより今自分が考えていることを吟味していよう。人と連絡がとれたことを喜んだこと、自分の無力さに苛まれていること、不安に思っていること、それでも何かをしたい役に立ちたいと思うことを覚えていたい。

2011年3月9日水曜日

花粉症について

スギの花粉症の僕は毎年苦しみながら春を耐えている。本来なら生物であれば越冬することは己の生死を賭けた問題であるわけだから、春の到来は成長繁殖の機会を再度得られることからも歓喜である。最近ではサルも花粉症だと言われているから、これは自然と人間の関係のみならず、自然と動物のバランスも崩れつつあるのだろう。そんな歪な春の迎え方を僕は16年もしている。小学校のころは花粉症は稀な病で、周りの人間に花粉症の説明をしてもあまり理解されず不毛であった。今では3人に1人くらいは花粉症らしく、説明せずとも苦しさまで伝わっている現状を少なからず僕は喜んでいる。
花粉症は花粉が飛んできて、目や鼻などの粘膜部に作用してアレルギー反応を起こすというのが簡単な説明だ。せっかくなのと、これからの対策につながるかもしれないので花粉症のメカニズムについて調べて書く。
せっかく分子生物学の学科を卒業したわけだし。

マスト細胞からヒスタミン
動物にはマスト細胞というものがある。これは肥満細胞とも呼ばれているが、太っているという意味での肥満とは関係ない。マスト細胞には膜の表面にIgEの高親和性Fc^ε受容体があり、ヒスタミンを含有する顆粒を含んでいる。

脱顆粒反応
Fc^ε受容体に結合したIgEが抗原で架橋。もしくは抗原を介さずに受容体どうしを架橋する。いずれかにより受容体どうしが凝集する。その反応により顆粒に貯蔵されていたヒスタミンなどが分泌される。ヒスタミンはヒスタミン受容体に作用され細胞内へ情報伝達する。この反応がアレルギー反応を起こす。
この反応を止めるのはアレルギー対策の一つである。ヒスタミン受容体はH1受容体、H2受容体、H3受容体の3つからなり、H1受容体とH2受容体の構造は共にGタンパク質共役型受容体であり、H3受容体の構造は未だ分かっていない。ヒスタミンがH1受容体に結合しないようにするH1遮断薬であるジフェンヒドラミン、クロルフェニラミン、メピラミン、トリプロリジン、メキタジン、テルフェナジンが抗ヒスタミン薬、つまり抗アレルギー薬として使われてきた。H2受容体、H3受容体は割愛。

ヒスタミン
次にヒスタミンとは何か。L-ヒスチジンが酵素ヒスチジンデカルボキシラーゼにより触媒されて脱炭酸反応を起こし、ヒスタミンが生成される。酵素ヒスチジンでカルボキラーぜはピルビン酸によって活性化する。
L-ヒスチジンは生体アミノ酸でタンパク質の構成成分である。さらにこれは必須アミノ酸と言って動物の体内では生成できないものである。

対策これは僕が勝手に考えたこと
酵素カルボキシラーゼを活性しないことによってヒスタミンの生成を抑えることはできるはずだ。つまりピルビン酸の濃度を下げる。それにクエン酸回路(TCA回路)をつまり、嫌気呼吸を活性させれば良い。ちなみにL-ヒスチジンは様々な段階を経てグルタミン酸に合成される。グルタミン酸はα-ケトグルタル酸を経てクエン酸回路を構成、ピルビン酸はオキサロ酢酸を経てクエン酸回路を構成している。嫌気呼吸の活性でヒスタミンの生成量と反応速度が下がる。嫌気呼吸の活性はビタミンcだったか。ビタミンcの摂取、運動も花粉症に効果があるかもしれない。

参考文献
「生化学辞典」東京化学同人
「ホートン生化学」東京化学同人
「ウーレット有機化学」化学同人
wikipedia

2011年3月5日土曜日

空き巣

先日、うちのマンションの前に警察の自転車が二台止まっていて、何事かと思っていた。もしかしたらまた、うちのマンションに不法滞在の外国人が住んでいるのかと色々詮索した。身柄の確保を行わないといけない場合は自転車二台で来ることはないだろうなと思う。そういう場合はパトカーで来る。身柄確保する前に逃走経路を塞がなきゃいけないのでそれなりの人数も必要ということが、かつての経験から知っている。かつての経験なんて書くと、まるでかつて捕まえられたかのごとき表現だけどそんなことはない。
そんなことを考えていたら今日、「当マンションにて空き巣の被害が出た」と張り紙が貼られていたのを発見した。なるほど空き巣の被害が出たから、捜査というか現場検証でもやっていたのか。うちのマンションは家賃も安いし立派でもない。さらにうちの近所は立派な家はたくさんあるからそっちを狙えばいいのにと思う。家賃が安くて防犯体制もしっかりしていない分、狙われやすいのかもしれない。空き巣の犯人にしてみれば、防犯もしっかりしている立派な家で一攫千金を狙うのも、防犯が適当で小金を稼ぐのに適した家をたくさん狙い数をこなすのも、選択としては心理的にそこまでの差はないのかもしれない。気をつけなければならん。
とは言ったものの僕の家には空き巣が好みそうな金目のものは残念ながらほとんどない。高価なもの、と言ってもたかが知れているが、パソコンとギター二本くらいで現金は全く置いていない。

空き巣の被害に遭うのはどれくらいの可能性を調べてみる。一年あたりの空き巣の被害件数を実際に住んでいる住居の数で割れば、一年あたり自分の家が空き巣の被害に遭う確率が出る。警視庁のホームページを見てみると都内の空き巣被害は減少しているみたいで昨年度発生件数は4540件だ。かなり減ってきていて昨年度はかなり少なく、それ以前はもっと多い件数が発生している。もう減少しきってこれ以上の減少はないとみなして昨年の数4540件を使う。
総務省の平成15年のデータでは東京には5,434,100の世帯があるから、現在も同じ世帯数だとすれば、概算すると僕の家がある一年に空き巣被害にあう可能性は0.08%だ。つまりだいたい1250戸に1戸の割合で被害にあう。これはなかなか高い気がするがどうなのだろうか。
これと同じくらいの確率の出来事を探す。宝くじのページを見てみると、宝くじの5等3000円が3本当たる確率は約1000分の1でつまりそれは0.1%だから、空き巣はこれよりもほんの少し起こらないくらいか。
やはり空き巣はあまり起こらないのだろうか。
???

2011年2月28日月曜日

カンニング

京大や立教や同志社や早稲田の入試でカンニングが発生したらしい。入学試験の時間中にヤフー知恵袋というサイトに入試問題が投稿されていたという話だ。まあ、そういうこともあるだろう。実際にあの問題は受験生がカンニングをしていたという問題だとして色々考えた。
カンニングこれを単純な入試のカンニングの問題と捉えて、犯人を見付け出して、息の根を止めればこの問題は解決なんだろう。しかしそうすることは社会的にちっとも有益ではない。なぜ、学力に見合わない大学にカンニングをしてまで入ろうとするのかを考えなければ、さらに巧妙な手口のカンニングは起こるし、カンニングは見つかりさえしなければやったもの勝ちということになる。多分社会の多くの人はそういう社会を望んでいない。
この問題の本質は「偏差値の高い大学に入学しさえすればいい」というところだ。それはつまり、大学は入学しさえすれば卒業はほとんど問題ないということ、今の日本の社会で優秀な大学の名前は水戸黄門の印籠のような役割を持つこと、の二つの具体的問題が挙げられる。今の大学生はほとんど勉強していないというよくある話は本当だと思う。昔の学生が勉強していたかどうかとかは分からない。大学生が勉強をしていないというのは授業の出欠の問題ではなく、試験前の徹夜での勉強やレポート作成、試験の点数や授業の成績評価の問題でもないのだけど、大学生がどうあるべきかという論題はまた別の機会にする。ただこの場で整理しておくべきことは、現在の大学は中身も外見も歪んでいるものだということである。
そして同時にこの問題について語るとき、その語り手がどのような立ち位置なのかを明らかにしておかなければ水掛け論になる可能性が高い。つまり、実力以上の学歴を持っていると思っている人間は学歴の方を見て欲しいだろうし、学歴以上の実力を持っていると思っている人間は学歴には目を瞑って貰いたいと思う傾向があるだろうという前提がある。学歴も実力もあると思っている人間はどちらでもいいと思うだろうし、どちらも持ってないと思う人間はもはやどうでもいいと思うだろう。要するに、実力を見て欲しい人と学歴を見て欲しい人が意見を闘わせていてその二者が問題を問題にしていて、どちらの論もそれなりに正当性のあることが言える。
僕は大学入試の第一志望校の結果は不合格だった。その試験中に不合格が濃厚だと気づいたとして、カンニングをする絶好の機会があったら、僕はカンニングをしていたかもしれない。それは分からなくて、絶好の機会のその度合いによると思う。例えば、意図せず隣の人の答案が見えてしまい自分の答えが間違っていることに気づいたら、間違いなく僕は答案を書き直しただろう。それだってカンニングの一つである。それは一般の社会では間違った行いだろうが、受験戦争という言葉に表されるように受験界は変な社会なのだ。成績がトップに近ければ人間的に優れていて、そうでなければ劣っているかのような扱いを受ける場合が多い。そして最終的にどこの大学に合格したのかがその人の人間の価値を決めるという世界が受験界だ。もっと言えば、有名大学なのかとか偏差値の数値が問題なのだ。そういう殺伐としている歪な社会にどっぷり浸かっている人間に、高潔な道徳心を植えつけようなんて難しい話だ。だって、本来ならば高校の勉強でさえ大学入試とは直接の関係ないというのがあるべき姿だろうが、今の進学高校は大学入試の予備校とそこまで変わらない。そして勉強の面白さを見出すことは無用で、効率よく知識吸収しそれを試験の解答欄にアウトプットさせる能力が重要とされる。その「効率よく」の部分を歪曲して解釈すれば、「勉強しなくても合格さえすればいい」ということになりうる。今回のカンニング問題もそういう観点で考えれば、ただの大きな博打に過ぎず、山をはるのと変わらない。失敗するかもしれないけど、もしかしたら合格するかもしれないという点で話は同じである。
僕は今回のカンニングをした受験生はよくないと思う。ヤフーのログを調べれば投稿者を特定できるかもしれないので、見つけて罰するという権利は大学側にある。犯人が特定されたとしても必要以上に叩くのはやめるべきで、必要以上に大学の名前やら偏差値やらを崇めることを叩くべきだということを肝に命じましょう。

2011年2月26日土曜日

ワルキューレ

ランニング中にふと空を見上げると星が流れていた。
そう言えば、小さいころは流れ星なんて一生見られないんじゃないかと思っていた。物語の中にはよく出てくるけど、私の前には流れ星はおろかその痕跡すら現れなかったからだ。そして流れ星に願いを託すと、それが叶うと信じていた。
流れ星は一秒にも満たない時間だけしか夜空を走らない。子どものころは夜空に接する時間が少なかったから見られなかったのだろう。ただそれだけのことなのかもしれない。

ランニング後、映画「ワルキューレ」を見る。「ワルキューレ」は実際にあったヒトラー暗殺未遂事件の話。1944年07月22日にシュタウフェンベルグ大佐の指揮の下、「ワルキューレ作戦」が決行される。その作戦は、ヒトラーを暗殺し、ヒトラー暗殺後に実権を握るであろうSSを排除するために、予備軍を使うことだった。歴史が語るようにその作戦は失敗する。その時代のナチスドイツのヒトラーの強固な支配体制を崩す作戦を考えること、そしてそれを実行するにあたって命令を下すことは、とてつもない意思の力が必要だったに違いない。

昨年夏、ドイツに行ったときにそのシュタウフェンベルグ大佐が銃殺された場所に行った。その時の私はほとんどその作戦のことも知らず、物思うことができなかった。ああ、ヒトラー暗殺計画が失敗したんだな、くらいしか思えなかった。映画はドラマだから多少劇的に脚色しているかもしれないが、その作戦の規模を考えれば、あの場所で感慨にひたり、処刑された人物を偲ぶことができただろう。それが残念でならない。

真実を知らずに明るい場所だけで生きていくのは子どもの生き方だろう。大人は暗い場所でも直視して耐えなければならないこともあるかもしれない。まだまだ私も子どもということか。

2011年2月19日土曜日

雪の日


先日の東京大雪の日。雪が積もりだした深夜に外出して街を見てきた。
寒い冬は好きじゃないけど、積もった雪を見ると心がはずむ。

2011年2月2日水曜日

2010年12月読書

ゆきお本棚
2010年12月
アイテム数:13
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
村上 春樹
読了日:12月02日

東京ファイティングキッズ・リターン
内田 樹,平川 克美
読了日:12月06日

村上春樹を読む。 (文庫ぎんが堂)
宮脇 俊文
読了日:12月09日

テレビ救急箱 (中公新書ラクレ)
小田嶋 隆
読了日:12月16日

女は何を欲望するか?
内田 樹
読了日:12月19日

超戦争論 下
吉本 隆明,田近 伸和
読了日:12月20日

若者よ、マルクスを読もう (20歳代の模索と情熱)
内田 樹,石川 康宏
読了日:12月21日

身体知-身体が教えてくれること (木星叢書)
内田 樹,三砂 ちづる
読了日:12月22日

議論のルールブック (新潮新書)
岩田 宗之
読了日:12月29日

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2011年1月27日木曜日

いま僕がいるところ



夜はこないでほしい。そういう子どものような気持ちになったのは久しぶりだ。
とても寒い松本。ただいま松本-3℃。

結婚披露宴のスピーチをしたとき、前日から緊張して3時間前から胃が痛んだ。あの緊張感の状態を通って、緊張することがあっても、あのときに比べればまだまだだなあと思えるようになって、だいぶんいろんなことが大丈夫になった。

本日、東京に帰る。これから1年で一番寒い2月が来る。でも1月の松本に比べれば東京なんてまだまだだなあと思えるようになるだろう。

2011年1月20日木曜日

東京ファイティング キンジョ リターン

本日、インタビューの日です。
さて早く寝ようかなと思っているのですが、隣の部屋がドンドンとうるさくて、気になって眠れないのです。すごくうるさくてちょっと隣の部屋に行ってどなってこようかと思ったりしています。しかし、それには言語の壁という問題が立ちはだかっています。要するに隣人は外国の方なのです。いや本当に、どこの国の言葉か分からない言語をまくし立てていて、厳密に言えば喧嘩なのかどうかも判別不能です。多分おそらく、あのわめき具合いや声の量や壁を伝ってうちのマンション全体に響いている物音から考えると喧嘩でしょう。
僕の隣の部屋の片方は会社のオフィスになっています。その会社がこのマンションのオーナーなのです。そして反対の隣の部屋というのは、数々のトラブルがあります。僕が今の部屋に住んでから、隣の部屋は何度も住人が変わっています。何度、住人が変わっても日本人が入ることはありません。一度なんか、不法滞在の外国の方が住んでいたらしく、警察に連れていかれていました。池袋や新宿や大久保などが近い目白のこのマンションは、そこまで高くない家賃のお陰で外国の人たちが入りやすいのでしょう。僕が東京に来る前に観たドラマ「池袋ウエストゲートパーク」さながらです。
そうこうしているうちに隣の喧嘩は終りを迎えたようです。よかった。と思ったらまたドンドンやってる。
やれやれ。

2011年1月3日月曜日

ゴッホ展

ゴッホ展へ行ってきた。
福岡でのゴッホ展は1月1日から始まった。今日は1月3日であるからまだまだ人が多かった。
開催されている九州国立博物館は、九州随一の初詣スポットと言ってもいい太宰府天満宮に近接している。つまりその場所へ行けば、初詣とゴッホ展が同時に楽しめるのでコストパフォーマンスが高い。そう踏んで来ている人間が大半であると僕は考えている。
むろん僕はそんなことはしない。神様へのご挨拶という新年の晴れやかな行事をセットメニューで楽しむなんて言語道断の行為である。と、そういうことまでは思い至らなかったのは、あまりの人の多さに辟易してゴッホ展後はすぐに帰りたかったからである。

ゴッホ展自体はとてもよかった。ゴッホは27才のときに画家になることを決めてそれから死ぬまでの10年間創作活動をした。27才でふらふらしているあたりは、自分と重なってとても親近感が湧いた。なるほどゴッホも27才まで己の生きる道を考えていたので大丈夫だ、と思ったけれどゴッホは死ぬまでに1枚しか絵が売れなかったのを思い出し僕の燃え上がった希望の火はたちどころに小さくなった。解説にあったけど初期のゴッホは絵が下手である。詳細はとても細かいけれど全体のバランスはひどい。そして次第にそれが改善されていく。晩年は精神に異常をきたしたということで療養所に入れられ、その内側でしか絵を書くことができなかったけれど見事な絵ばかりだった。彼ももっと長生きしていたら、生きているうちに認められたかもしれない。

ゴッホに影響を与えたということでモネの作品が展示されていた。モネの絵はいい。モネ展がBunkamuraで開催されているから行かなくては。

2011年1月1日土曜日

2011年初日

今年も元旦から有意義な生活を送ることができた。そもそも年が明ける0時の瞬間は家にいたが、その30分後には近所の神社へと足を運んでいた。友人2人と初詣に行くのは昨年と同様である。昨年は学問の神様である菅原道真公を祭ってある太宰府天満宮へと行った。天満宮とは菅原道真を祭神とする神社である。菅原道真は当時の政局に敗れ京都から福岡太宰府へ左遷となった。そして、そこで生涯を終えるのであるが死後の霊力があまりに凄まじくそれを抑えるために天満宮を作ったのである。今では学問の神様として多くの受験生たちが自己の目的の達成のためゴマをすりに行っている。今年は正月三が日の人出予想は300万人ほどらしい。
そういうところへ昨年は行って、寒い中3時間も行列に並ぶはめになった。その並んでいる途中、日本人と信仰心について友人と思想的意見の対立が生じ大激論となる。
今年は九州に寒波が来ていて雪が降っていた。そのような寒さの中、並んでいたらイライラが募り昨年どころの激論では済まないかもしれないので近所の氏神様へ参拝してきた。それなりに大きな神社であるので田舎の神社とは言えどそこそこ人の数はあった。人が多いのはイヤだと言っても初詣の雰囲気は味わいたい。自分たち以外に誰もいない薄暗い神社へ行ってお神籤もひかずに帰るのは寂しい。だから今年行った筑紫神社という場所の選択は大正解であった。お参りは二礼二拍手一礼を意識しすぎて、願い事を祈るのを忘れてしまっていたこと以外は概ね順調であった。お神籤をひけば大吉が出る。寒いと思っていると熱燗をくれる夢のような神社であった。
そのようにして僕たちは何事もなく年を明かしたのである。

その後、家へ帰り寝る。昼前に目が覚めて飯を食い近所のドトールコーヒーへ向かう。友人は11時の開店直後から行っていたらしい。僕もそれに負けじと2011年初ドトールをする。ドトールへ行って読書をしようと思ったのだが、友人が「葉隠抄」を読んでいて暫しそれについて有意義な話をしてしまった。
そして一度は帰宅するが、別の友人と同じドトールへ行き、また話をする。ドトールへの道すがらスマートフォンについて話す。ドトールでは僕と友人のどちらも作業をする予定であったが、話をしてしまい何も進まず。

さてこの1日で2011年について色々考えたことがある。「一年の計は元旦にあり」と言うように今年の計画を立てたのだ。今年は読書の数もさることながら、その質を高めるために古典を読むことにする。数の目標は古典を20冊、それ以外で50冊くらいが妥当だろうか。それくらいだと2010年のペースくらいで達成できそうだ。ブログは1週間に1回はまともな文章を書く。
それ以外はあまりに不明であるから未定である。今年は昨年よりも楽しいものであることを願う。

謹賀新年


あけましておめでとうございます。
2011年もよろしくお願いします。

話題のウサギくんです。