2010年11月14日日曜日

親ガメ子ガメ問題

さきほど友人から電話がかかってきて、思いついたから書く。

受験時代、depend on~(~に依存する)という熟語はなぜ前置詞にonがくるのかという話を予備校の先生がしていたのを思い出す。
親ガメと子ガメがいて親ガメの甲羅の上に子ガメが乗っているという図を描いてくれた。依存するってのはこういうことだよ、と。この図をみて「子ガメはいいなあ」と僕はそのとき何となく思っていた。

人間同士はその関係性において依存と被依存に分けられるが、同じ人同士でも問題によってその関係性は逆転する。依存-被依存関係の被依存側に各々がなろうとすれば、人間関係は円滑に進む。というよりも、どちらも依存側にたとうとしたら衝突が起こり亀裂が走る。あくまでこれは物事に取り組むときの構え方の問題であり、どちら側か判断し難いことは多々ある。それでも構え方としてそうしておく方がよい。
僕の思いとしては常に依存側に立とうとしている人間と一緒に行動すると疲れるからできるだけ遠ざかりたい。言い方を換えれば「責任感」の問題である。ある物事に対してどれだけ自分なりの「責任」を感じているか。ある物事に参加する際、どれだけの「責任」を有するかを予め考慮しておく「責任」がある。軽はずみに色々な物事に手を出すのは構わないだろうが、それに伴なう「責任」は放置してはいけない。だから多くの人は多くのことに手を出せないし出さない。物事に参加していて自分はただの参加者だから「責任」がないと思っている人間は文字通り「無責任」である。

個体としての人間は本質的に怠惰であり、社会としての人間は勤勉である。カラにこもったり周りを見ないようにすると怠惰な方向へ人間は流れていく。僕が「子ガメがいいなあ」と思ったのは自分で動かなくていいという怠惰な感情からであると思う。子ガメは親ガメが動けば自分も移動できる。そして大体において、成長していない子ガメの願望は親ガメと一致している。食べること。安全な場所で眠ること。

子ガメは本能的に依存から脱却するが、人間はいつまでも依存することができる。いや、いつまでもはできない。依存-被依存関係では被依存側の主張がいつも有利であるから、被依存側がNOを突きつけたとき依存側はその場にいられなくなるのである。依存側が依存し続けたいと主張することはできるが、被依存側が依存させ続けたいという思いがない限りこれは永遠に認められない。
だから僕はできるだけ被依存側に立ちたい。自分から何かを始めようとする人間は好きで、責任を持って色々なことに参加する人間も好きである。人に何か始めてもらおうとする人間や無責任な態度は好ましくない。

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